団体
サロン・ド・パリ(官展)
さろんどぱり
サロン・ド・パリ(さろんどぱり)は、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが1667年に始めた公式の美術展覧会で、ふつうは単にサロンと呼ばれ、日本ではしばしば「官展」と訳される。サロンの名は、18世紀に会場となったルーヴル宮のサロン・カレ(方形の間)に由来する。審査を通った作品だけが並び、入選や受賞、国の買い上げが画家の評判と注文を左右したので、18〜19世紀のフランスで画家が世に出るためのいちばんの舞台となった。1863年の落選展や1874年からの印象派展など外の展覧会が力をつけるなかで、1881年に国が主催から手を引いてフランス芸術家協会が運営を引き継ぎ、1890年には国民美術協会が分かれた。
出典: コトバンク「サロン」(改訂新版 世界大百科事典(馬渕明子)・日本大百科全書(中山公男)・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2026-10-13 取得) https://kotobank.jp/word/さろん-1539781、ja.wikipedia「サロン・ド・パリ」(2026-10-09 版、2026-10-13 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/サロン・ド・パリ、ja.wikipedia「フランス芸術家協会」(2022-06-08 版、2026-10-13 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/フランス芸術家協会、en.wikipedia「Salon (Paris)」(2026-06-09 版、2026-10-13 取得) https://en.wikipedia.org/wiki/Salon_(Paris)、ルーヴル美術館「Le Salon par excellence – Le Salon Carré」(2026-10-13 取得) https://www.louvre.fr/decouvrir/le-palais/le-salon-par-excellence、ブリタニカ百科事典「Salon」(2026-10-13 取得) https://www.britannica.com/art/Salon-French-art-exhibition
年表・沿革
1667
- 王立絵画彫刻アカデミーが、財務総監コルベールの発案で、パレ・ロワイヤルの中庭に会員の作品を並べる最初の展覧会を開いた。
1737
- ルーヴル宮のサロン・カレで、だれでも無料で見られる展覧会を開き、以後は毎年、のちに隔年で、定期的に開かれるようになった。
1748
- 審査員が出品作を選ぶ制度が始まった。
1791
- ダヴィッドらの働きかけと国民議会の法令により、アカデミーの会員でなくても、存命の芸術家ならだれでも出品できるようになった。
1855
- パリ万国博覧会の美術展に組み込まれ、このときから会場がシャンゼリゼの産業館に移った。
1863
- 応募およそ5000点のうち3000点ほどが落とされて抗議が高まり、ナポレオン3世の命で落選作を集めた落選展が開かれて、マネの《草上の昼食》が騒ぎを呼んだ。
1881
- 前年12月の公教育・美術大臣ジュール・フェリーの決定で国がサロンの主催から手を引き、サロンに入選したことのある美術家たちがつくるフランス芸術家協会が運営を引き継いだ。
1890
- 協会を率いるブグローらと対立したメソニエが、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌやロダンらとともに協会を離れて国民美術協会をつくり、シャン・ド・マルスで別のサロンを開いた。
関連人物
- 財務総監 ジャン=バティスト・コルベール 1667〜
ルイ14世の財務総監で、王立絵画彫刻アカデミーの最初の展覧会を発案した
- 出品者・陳列係 ジャン=バティスト・シメオン・シャルダン 1737〜1779
1737年から没年の1779年までサロンに出品を続け、1740年に食前の祈りを出したほか、アカデミーの会計官を務めながらサロンの作品の陳列も任された。
- 批評家 ドゥニ・ディドロ 1759〜
啓蒙思想家。友人グリムの『文芸通信』にサロン評(1759〜81年)を寄せ、近代の美術批評の形を築いた
- 出品者 ジャック=ルイ・ダヴィッド 1781〜
1781年、《施しを乞うベリサリウス》で王立絵画彫刻アカデミーの準会員になり、その年のサロンに初めて出品した。1785年にホラティウス兄弟の誓い、1787年にソクラテスの死、1789年に《ブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち》とパリスとヘレネの恋を出した。1789年9月からはアカデミーの改革を求める会員の先頭に立って、会員でない芸術家にも出品を認めるよう求め、1791年のサロンはすべての芸術家に開かれた。1808年のサロンにはナポレオンの戴冠式を出した。
- 出品者 ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル 1802〜1834
1802年にサロンにデビューし、ローマからも作品を送り続けて、1824年のルイ13世の誓いで認められ、ロマン派のドラクロワに対する新古典主義の旗手と目されたが、1834年の出品作の不評に失望してローマへ移り、以後サロンには出品しなかった。
- 出品者 テオドール・ジェリコー 1812〜
1812年のサロンにデビュー作突撃する近衛猟騎兵(近衛猟騎兵士官)を出して金賞を受け、1819年のサロンに出したメデューズ号の筏はロマン派絵画ののろしとなった。
- 出品者 ウジェーヌ・ドラクロワ 1822〜1859
1822年、ダンテの小舟で初めて出品し、国に買い上げられた。1824年のキオス島の虐殺は二等メダルを受けて国が買ったが、1827〜28年のサルダナパールの死は批評にこぞって退けられた。1831年に民衆を導く自由の女神、1834年にアルジェの女たちと《ナンシーの戦い》、1838年に《怒れるメデイア》、1839年に《墓場のハムレット》を出し、1859年が最後の出品となった。
- 出品者・審査員 カミーユ・コロー 1827〜
1827年から定期的にサロンに出品し、1848年に2等メダルを受けて二月革命のあとは審査員も務め、1864年に出したモルトフォンテーヌの思い出は国に買い上げられた。
- 出品者 アントワーヌ=ルイ・バリー 1831〜
1831年のサロンに初めて出したガビアルを食らう虎で賞賛を受けたが、アカデミックな彫刻家の反感も買って1837年に落選し、1848年まで出品しなかった。
- 出品者・審査員 ジャン=フランソワ・ミレー 1840〜
1840年に肖像画で初入選し、1848年の箕をふるう人で農民を描く画家として立ち、種まく人や落穂拾いもサロンで論議を呼んで、1870年には審査員に選ばれた。
- 出品者 ギュスターヴ・クールベ 1844〜1870
1841年から3年続けて落とされ、1844年に黒い犬を連れた自画像で初めて入選した。1849年にオルナンの食休みでメダルを得て、1857年に規則が変わるまで審査なしで出品できた。1870年に、嵐のあとのエトルタの断崖と荒れた海を描いた2点を出したのが最後の出品で、1872年には審査で2点を落とされた。
- 批評家 シャルル・ボードレール 1845〜
詩人。『1845年のサロン』で美術批評家として世に出て、『1846年のサロン』ではドラクロワをたたえた
- 出品者・審査員 ジャン=レオン・ジェローム 1847〜
1847年のサロンの雄鶏の戦いで名声を確立し、エコール・デ・ボザールの教授やアカデミー会員、サロンの審査員を務めて、写実主義や印象派と対立した。
- 出品者 ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ 1850〜
1850年にサロンにデビューしたあと落選が続いたが、1861年に出した《協和》が国に買い上げられて壁画家として認められ、1890年にはメソニエらと国民美術協会をつくって分かれた。
- 出品者 ギュスターヴ・モロー 1852〜1880
1852年にサロンに初めて出品し、1864年のオイディプスとスフィンクスで注目されたが、1869年のプロメテウスが非難されると7年間出品を見合わせ、1876年に出現などで好評を得たのち、1880年を最後に出品をやめた。
- 出品者 エドゥアール・マネ 1861〜1882
1861年に《スペインの歌手》で初入選し、1865年のオランピアで物議をかもしたのちも、印象派展には一度も加わらずサロンを画家の闘いの場として出品を続け、1881年にメダルを受けて、翌年フォリー・ベルジェールのバーを出した。
- 皇帝 ナポレオン3世 1863〜
審査の厳しさへの抗議にこたえて、落選作を集めた落選展を開かせた
- 出品者 クロード・モネ 1865〜
1865年に海景画2点で初入選し、1866年の緑衣の女(カミーユ)も入選したが、1867年の《庭の中の女たち》、1869年と1870年の出品は落選した。1880年に10年ぶりに出品して《ラヴァクール》が入選した。
- 批評家 エミール・ゾラ 1866〜
作家。1866年のサロン評で、落選したマネの《笛を吹く少年》を擁護した
- 出品者・審査員 オーギュスト・ロダン 1875〜
1875年に大理石の《鼻のつぶれた男》で入選し、青銅時代は人体から型を取ったと疑われる騒ぎになったが、1880年のサロンの彫刻部門で3位となり、1889年には審査員に招かれた。
- 出品者 ポール・ゴーギャン 1876〜
株式仲買人として勤めながら余暇に描いていた作品が、1876年のサロンに初めて入選した。
- 出品者 ジョン・シンガー・サージェント 1877〜
1877年に初めて入選し、1880年代の初めには定期的に肖像画を出したが、1884年のサロンのマダム・Xの肖像が不評を招き、ロンドンへ移るきっかけとなった。
- 公教育・美術大臣 ジュール・フェリー 1880〜
1880年12月の政令で国とアカデミーによるサロンの運営を終わらせ、運営を美術家たちの協会に任せた
- 出品者 ポール・セザンヌ 1882
1864年から1869年まで毎年落選し、その後も1882年まで応募を続けた。入選はその1882年の一度だけで、審査員になった友人の画家アントワーヌ・ギユメの弟子という名目によるものだった。
- 出品者・審査員
神話画や宗教画の大作で成功を収めて生涯を通じて毎年サロンに出品し、1885年に名誉メダルを受け、審査員を務めて、1890年にはフランス芸術家協会を率いる立場にあった。
- 出品者
アカデミーの教授から院長へと進み、1767年の回を除いて没する1770年までサロンに出品を続け、晩年にはディドロのサロン評で批判された。
- 出品者
1890年代の前半、本の挿絵をサロンに出品して賞を受けた。
