
アルフォンス・ミュシャ
チェコの画家アルフォンス・ミュシャのジスモンダは、収集家が夜中に剃刀で切り取って持ち帰るほど人気を集めた。女優サラ・ベルナールを描いたこのポスターで一躍有名になり、花と女性を曲線で描くアール・ヌーヴォーの代表として知られる。
1860年、オーストリアの支配下にあった南モラヴィアの町イヴァンチツェに生まれた。姓はチェコ語では「ムハ」と読む。画家としての第一歩は、ウィーンの舞台美術工房で背景を描く見習いの仕事だった。
工房の大口の得意先だった劇場が火事で焼けると、ミュシャは職を失った。南モラヴィアの小さな町ミクロフで肖像を描き、地主のクーエン=ベラシ伯爵に認められる。伯爵の援助でミュンヘン、続いてパリで学んだ。やがて学費の援助が打ち切られ、出版社の挿絵を描いて暮らしを立てた。
転機は1895年1月1日の朝だった。ジスモンダがパリじゅうに貼り出された。ほぼ等身大の女優を細長い画面に立たせたポスターは、それまでの街頭広告と大きく違っていた。ベルナールはミュシャと6年の契約を結び、ポスターに加え、舞台装置や衣装も任せた。
印刷所シャンプノワとの仕事からは、四季など、家の壁や衝立を飾る装飾パネルが生まれた。図案はカレンダーや絵はがき、メニューにも使われた。
日本でも、1900年創刊の雑誌「明星」で表紙や挿絵を描いた一条成美や藤島武二の作品に、ミュシャの作風がうかがえる。
ミュシャには、スラヴ諸民族の歴史を大作に描く計画もあった。資金を求め、1904年からの6年間に5回アメリカへ渡った。後援者となったのは、アメリカの富豪チャールズ・R・クレインだった。
1910年にプラハへ戻ると、連作「スラヴ叙事詩」に打ち込んだ。古代から近代までの苦難と栄光をたどる20点で、大きいものは縦約6メートル、横約8メートルに及ぶ。1928年、ミュシャとクレインは連作全体をプラハ市に正式に寄贈した。
新しく成立したチェコスロヴァキアでは、最初の切手や紙幣もデザインした。1939年3月、ドイツの侵攻後にゲシュタポに逮捕された。尋問後に釈放されたものの健康が衰え、同年7月14日にプラハで没した。
2017年、国立新美術館の「ミュシャ展」に「スラヴ叙事詩」全20点が並んだ。連作全体がチェコ国外で公開されたのは初めてで、会期全体の入場者は657,350人に上った。
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