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作家一覧

はなよ

花代

Hanayo

1989年、向島。十九になったばかりの中島花代は、白塗りに紅を差し、半玉として座敷に上がっていた。玉川大学で彫刻を学び、パリを見てきた娘が、いまさら花柳界の見習いに入る。その稽古の日々を撮りためた最初の一冊が《おしゃくちゃん No.1》だった。芸妓であり、モデルであり、やがてミュージシャン——場から場へ、彼女は身ひとつで渡っていく。 1992年、秋田昌美(メルツバウ)と中原昌也(暴力温泉芸者)とバンドMuscatsを組む。ノイズと電子音の側から美術へ、境目を気にせず出入りする姿勢は、このころ固まっていった。1995年に花柳界を離れてロンドンへ渡り、ドイツ人と結婚して娘の天光子を授かる。翌1996年、写真集『ハナヨメ』(新潮社)で写真家として立った。 やがてベルリンに拠点を移し、演出家クリストフ・シュリンゲンズィーフの演劇に加わる。1997年のカッセル、ドクメンタXでは彼の作品の中でオノ・ヨーコを演じた。花代の写真は、街角や行きあった人を記録として写すのではなく、むせ返るほど高い彩度の色として掬いあげる。そこへコラージュや音、立体が接ぎ木され、撮る者と撮られる者の暮らしが地続きに溶けていく。ピアスと和の伝統、西と東——ぶつかり合うものを一枚に同居させるその画面を、友人たちは「森のバロック」と呼んだ。 個展に「うつしゆめくに」(パルコギャラリー、2000年)、「hanayo」(パレ・ド・トーキョー、2002年)、「hanayo III」(タカ・イシイギャラリー、2017年)。写真集《MAGMA》(赤々舎、2008年)、『berlin』(2013年)、『花代の地下 半世紀』(2021年)を重ね、作品は東京都写真美術館に収まっている。いまもベルリンと東京を行き来しながら撮りつづけている。

ハンス・インネメー

Hans Innemee

ハンス・インネメー(1951〜)は、オランダ南部の町ヘールレンに生まれた。本名はハンス・ペータース。のちに母方の姓を取り、インネメーと名乗るようになる。若い頃はニューウェイヴ・バンドでベースを弾いていたが、ティルブルフの美術学校で造形を学ぶうちに絵とイラストレーションへ軸足を移していった。 インネメーの画面をかたちづくっているのは、主題以前にまず手順そのものだ。ティッシュペーパーにモノタイプで素描を描き、桑の樹皮から漉いたタイの手漉き紙に貼り込み、それを木製パネルへ張り重ね、最後にオイルパステルで色を置く。何層もの紙を通り抜けた表面は、くすんで柔らかな発色と、にじみをともなうあいまいな輪郭を帯びる。この物質の手触りが、そのままインネメーの絵の手触りになっている。 そこへ繰り返し姿を見せるのが鶏だ。円い胴、斜めの嘴、熊手めいた脚——最小限の記号だけで立ち上がるこの鶏は、英国の喜劇人トミー・クーパーの寸劇から生まれた。動物や人を親しみとユーモアで掬い取るインネメーの仕事を、この鶏が一本の糸のように貫いている。作品はオランダ国内にとどまらず、バルセロナやパリ、東京にも渡ってきた。

第07話

BIEN(成清北斗)

ビエン(なりきよ ほくと)

BIEN (Hokuto Narikiyo)

一本の線が、文字であることをやめる瞬間がある。BIEN(ビエン、本名・成清北斗、1993年東京生まれ)のドローイングは、まさにその瞬間を捕まえようとする試みだ。アニメーションの動く輪郭や、街の壁に吹きつけられたグラフィティの文字――記号として意味を担っていたはずの形が、BIENの手のなかでゆるみ、ほどけ、キャラクターでも文字でもない何かへと変質していく。具象に近づいたと思えば抽象へ流れ、抽象に沈んだと思えばふいに眼や顔の気配が浮かび上がる。その定まらなさこそが彼の主題であり、つくられたイメージ(虚構としての幻像)と、物質としての世界の手ざわりとが、どこで触れ合うのかを問い続けている。 制作の核はあくまでドローイングにあるが、そこから映像、彫刻、インスタレーションへと表現を横に広げていくのがBIENの流儀だ。アカデミックな師承の系譜からではなく、アニメーションとストリートのグラフィティという、動きと速度を宿した視覚文化を出発点に持つ点に、この作家の独自性がある。 2016年、東京・ANAGRAでの《Living, Daylights, Room》で早くから発表を始め、2018年には青山・BLOCK HOUSEでの個展《WOOZY WIZARD》、同年ワタリウム美術館のグループ展《理由なき反抗》に参加。Reborn-Art Festival(2017/2019/2022)では宮城・網地島の建物壁面に直接ドローイングを描き込み、絵画を「壁」という支持体そのものへ解き放った。2021年の《DUSKDAWNDUST》(PARCEL/HARUKAITO by island、東京)、2022年に金沢21世紀美術館のインスタレーションルームで発表した《SCAN THE WORLD [NEW GAME]》、2023年の《PlanetesQue: The Case of B》(PARCEL、東京)と個展を重ね、東京都現代美術館のグループ展(2024)にも名を連ねた。 近年は活動を海外へも広げ、2024年にパリのベルヴィル・アトリエ(Les Ateliers d'Artistes de Belleville)で《Solo Exposition de BIEN》、山梨のギャラリートラックスで《Magic Lantern Phase》を開催、2026年にはロンドンの SEASON 4 EPISODE 6 で《In a Grove of Lights》を発表した。《YES EYE SEE》や《Debris - 15》といった作品名にもうかがえるように、見ること・崩れること・光が像を結ぶことへの関心が、線から立ち上がる世界を今も更新し続けている。

第10話

クリストファー・バックロウ

Christopher Bucklow

1957年、イングランド北西部フリクストンの生まれ。1978年に美術史の学位を取り、そのままロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館(V&A)版画素描部門の学芸員となった。在職は1995年まで17年に及び、担当したのはロマン主義美術と写真、なかでもウィリアム・ブレイクの版画だった。日々ブレイクの図版と向き合ったこの時間が、のちの制作を静かに準備していたのかもしれない。 作家として自分の名を刻んだのは、1993年に始めた写真シリーズ《Guests》だ。手法は独特で、人のシルエットをアルミ箔の上に写し取り、その輪郭いっぱいに無数のピンホールを穿つ。この箔を印画紙の前に据えて太陽光にさらすと、一つひとつの穴が小さなピンホールカメラとなり、太陽そのものの像を焼き付ける。仕上がった印画紙には、無数の太陽の粒だけで編まれた人影が立ち上がる——誰かの姿でありながら、実体は光の点の集積でしかない。1点ずつしか作れない写真であり、複製は利かない。2006年からはこれと並行して、大画面に即興で筆を走らせる絵画《To Reach Inside A Vault》のシリーズにも取り組んでいる。 作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館、グッゲンハイム美術館、サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)、そして古巣のV&Aといった美術館のコレクションに入っている。2017年にはサウサンプトン市立美術館で回顧展「Said Now, For All Time」が開かれ、学芸員から作家へと転じた自身の歩みを一堂に見せた。

すみよしぐけい

住吉具慶

Sumiyoshi Gukei

10メートルを超える絵巻で、京の町の賑わいは、茄子が実り柿が熟す郊外の田園へ移っていく。住吉具慶の代表作《洛中洛外図巻》である。具慶は、大和絵の画家として初めて江戸幕府に召し抱えられた。 寛永8年(1631年)、具慶は住吉如慶の長男として京都に生まれた。土佐派に学んだ父は、寛文2年(1662年)、後西天皇の命を受け、途絶えていた鎌倉時代の絵師・住吉慶忍の画系を復興するために住吉の姓を名のった。これが住吉派の始まりで、具慶は二代目にあたる。 京都で宮中の仕事に携わる一方、具慶は古い絵巻をいくつも写した。平安時代の《年中行事絵巻》は、江戸初期の内裏の火事で原本が焼けた。焼失前に如慶・具慶父子らが写したとされる模本などによって、図様は今も3分の1ほどがしのばれる。如慶が手がけた《東照宮縁起絵巻》を、父の没後に仕上げたのも具慶だ。 延宝6年(1678年)の《徒然草画帖》は、「徒然草」から選んだ50の章段を、詞と絵で見開きに貼り込んだ画帖である。公家の孫娘が越前松平家に嫁ぐ際の道具として作られたと指摘されている。「徒然草」を題材にした絵はほかにもあり、一枚の《徒然草図》が残る。 具慶は天和3年(1683年)に江戸へ召し出され、貞享2年(1685年)には幕府の奥絵師となった。当時、幕府に仕えた狩野派は中国風の画法を取り入れていた。その江戸に日本の伝統を受け継ぐ大和絵の画派が根づき、住吉派は京都の土佐派と並び称されるようになる。 《洛中洛外図巻》は、近世初期の洛中洛外図屏風とは対照的に、比較的低い視点から人々の仕事や暮らしを描く。明治34年(1901年)の『真美大観』は、図巻の筆づかいと彩色を古い土佐派の名家に並ぶと称賛した。一方で、人物の顔かたちはほとんど「千篇一律」で、変化に乏しいきらいがあるとも評している。同書は、従兄とする土佐派の土佐光起が狩野派などの画法を取り入れて時代の好みに応えようとしたのに対し、具慶は古い土佐派の気品を取り戻そうとした、と記した。 いまの見方は違う。『日本大百科全書』は、具慶の描く人物は父より表情が誇張され、その現実感のある描写が《洛中洛外図巻》などに生かされているとする。 大正5年(1916年)の図録には、尾形光琳が具慶にも絵を学んだという話が載る。具慶は宝永2年(1705年)に江戸で没した。子の広保、孫の広守が幕府の御用絵師を継ぎ、住吉家は幕末・明治まで続いた。

マーティン・パー

Martin Parr

海辺の砂の上に、ケチャップまみれのフライドポテトが山盛りで転がっている。日焼けした肌、けばけばしい水着、ゴミの散らばる浜辺——マーティン・パーが1983年から85年にかけてリヴァプール近郊の行楽地ニュー・ブライトンで撮り続けた写真は、そういう光景で埋まっている。1952年、サリー州エプソムに生まれたパーは、アマチュア写真家だった祖父に手ほどきを受けて写真を始め、1970年からマンチェスター・ポリテクニックで学んだ。 ニュー・ブライトンでの仕事は写真集《The Last Resort》にまとめられ、1986年にサーペンタイン・ギャラリーで発表された。飽和したどぎつい色彩と、日中でも容赦なく焚くフラッシュ。労働者階級の家族が過ごす休日を、まるで顕微鏡で覗くような近さで写し取ったその写真は、「残酷で覗き見的だ」という批判を浴びる一方、サッチャー政権下のイギリスをこれ以上なく生々しく映し出した一枚として語り継がれることになった。 以後もパーは、スーパーマーケットの棚、観光地の土産物、ビュッフェの皿に盛られた料理といった消費社会の風景を《Common Sense》などの仕事で撮り続けた。対象への距離の詰め方も、色の毒々しさも変えないまま、世界中の似たような光景を並べていくその視線は、旅行者でも人類学者でもない、パーだけの立ち位置から生まれたものだった。1994年にマグナム・フォトの正会員となり、2013年から2017年まで会長を務める。生涯に刊行した写真集は100冊を超え、2017年には拠点としていたブリストルにマーティン・パー財団を開いた。2025年12月、同地で73歳の生涯を閉じた。

がんき

顔輝

Yan Hui

顔輝は、元のはじめごろの中国の画家である。字は秋月。生年と没年ははっきりしない。出身は浙江省の江山とも、江西省の廬陵ともいわれる。仏教や道教の人物を描く道釈人物画を得意とした。確かな作とされるのは、京都・知恩寺に伝わる《蝦蟇鉄拐図》双幅だけである。室町時代の画僧・明兆の《蝦蟇鉄拐図》は、顔輝の作を手本にしたものとされる。

第11話

酒井抱祝

さかい ほうしゅく

Sakai Hōshuku

とみおか えいせん

富岡永洗

Tomioka Eisen

富岡永洗が挿絵を描くかどうかで、「都新聞」の売れ行きが大きく違ったという。新聞の挿絵や、小説の巻頭を飾る美人の口絵で人気を集めた明治の絵師である。 元治元年(1864年)、信濃国松代の藩士の家に生まれた。本名は秀太郎。絵を描く父から手ほどきを受け、少年のうちに陸軍参謀本部の地図科に出仕した。製図の仕事で一家を支えながら、小林永濯に絵を学んだ。 土曜の夕方に四谷の自宅を出て、向島の師のもとへ通い、翌朝から暮れまで教えを受ける。大雨でも大雪でも、毎週欠かさなかったという。息子は画家として成功するかと母に問われた永濯は、「ぼた餅ほどの印を捺して保証する」と答えたと伝わる。 師を失った明治23年(1890年)、陸軍の職を辞して画業に専念した。改進新聞の挿絵を経て、明治25年(1892年)から都新聞に描き始める。村井弦斎の小説と組んだ挿絵が次々に当たり、描かれた女の髪型や着物の模様、顔かたちまで、流行の手本になったといわれる。 単行本や雑誌の口絵も数多く手がけた。口絵は、小説や雑誌の巻頭に綴じ込まれた多色摺の木版画である。永洗が口絵を描いた単行本の作家は33人にのぼる。「文芸倶楽部」には、明治28年(1895年)の創刊から没年まで毎年描き続けた。遅塚麗水の小説の《袈裟御前》、田村松魚の小説の《深山がくれ》もその口絵である。明治の浮世絵師には珍しく春画も手がけ、12枚組の「八雲の契」が知られる。 のちに美人画で名をなす鏑木清方も、十代から永洗の絵に思慕に近い愛着を抱いていた。清方は「あの時分に、もし口絵の人気投票があったとしたら、その高点を得るものは、恐らく富岡永洗であったろう」と書く。官能的ではあっても卑俗にならない艶色が、時代の好みに合っていたという。 永洗は肉筆画にも力を注いだ。明治33年(1900年)の日本絵画協会展に出した《新内》は、燈火のもとで煙管を突いて物思う娼婦を描いた作品で、清方によれば好評だった。日本画会の展覧会には、ふだん展覧会へ行かない人々も永洗の肉筆を目当てに訪れた。一方、浮世絵系の作として画品が卑しいと評する声もあった。明治38年(1905年)、肺結核で世を去る。病床で書いていた遺言状には、計画中の画会「藻斎会」など、絵のことばかりが記されていた。

第06話

森村宜稲

もりむらぎとう

Morimura Gito

ジャコモ・マンズー

Giacomo Manzù

ジャコモ・マンズー(1908〜1991)は、北イタリア・ベルガモの靴職人の家に生まれた。彫刻の手ほどきといえば数度の夜間美術教室くらいで、特定の師にはつかず、あとは古典彫刻を自分の目で見て学んだ人だった。 名を世界に知らしめたのは、ローマのサン・ピエトロ大聖堂に据えられた青銅の《死の扉》である。1964年、五百年ぶりに新調されたこの扉で、マンズーは聖書の場面を大づかみな量塊とざらついた表面のまま刻み、教会のブロンズ扉という古い仕事を今の手つきでやり直してみせた。もうひとつ、生涯かけて何度も形を変えて彫り続けたのが《枢機卿》の連作だ。緋の祭服をまとった坐像・立像は、体の凹凸をほとんど円錐ひとつに畳み込みながら、それでも人の気配と息をひそめる沈黙を失わない。 量塊を大きく単純化しながら、表面にはノミの震えをそのまま残す──その両立が、マンズーの彫刻を宗教的な主題と近代彫刻のあいだに立たせている。ロダン以後の具象彫刻を、装飾でも写実でもない、祈りに近いかたちへ引き戻した作家である。

第12話

ジャック・ピアソン

Jack Pierson