
富岡永洗
富岡永洗が挿絵を描くかどうかで、「都新聞」の売れ行きが大きく違ったという。新聞の挿絵や、小説の巻頭を飾る美人の口絵で人気を集めた明治の絵師である。
元治元年(1864年)、信濃国松代の藩士の家に生まれた。本名は秀太郎。絵を描く父から手ほどきを受け、少年のうちに陸軍参謀本部の地図科に出仕した。製図の仕事で一家を支えながら、小林永濯に絵を学んだ。
土曜の夕方に四谷の自宅を出て、向島の師のもとへ通い、翌朝から暮れまで教えを受ける。大雨でも大雪でも、毎週欠かさなかったという。息子は画家として成功するかと母に問われた永濯は、「ぼた餅ほどの印を捺して保証する」と答えたと伝わる。
師を失った明治23年(1890年)、陸軍の職を辞して画業に専念した。改進新聞の挿絵を経て、明治25年(1892年)から都新聞に描き始める。村井弦斎の小説と組んだ挿絵が次々に当たり、描かれた女の髪型や着物の模様、顔かたちまで、流行の手本になったといわれる。
単行本や雑誌の口絵も数多く手がけた。口絵は、小説や雑誌の巻頭に綴じ込まれた多色摺の木版画である。永洗が口絵を描いた単行本の作家は33人にのぼる。「文芸倶楽部」には、明治28年(1895年)の創刊から没年まで毎年描き続けた。遅塚麗水の小説の袈裟御前、田村松魚の小説の深山がくれもその口絵である。明治の浮世絵師には珍しく春画も手がけ、12枚組の「八雲の契」が知られる。
のちに美人画で名をなす鏑木清方も、十代から永洗の絵に思慕に近い愛着を抱いていた。清方は「あの時分に、もし口絵の人気投票があったとしたら、その高点を得るものは、恐らく富岡永洗であったろう」と書く。官能的ではあっても卑俗にならない艶色が、時代の好みに合っていたという。
永洗は肉筆画にも力を注いだ。明治33年(1900年)の日本絵画協会展に出した《新内》は、燈火のもとで煙管を突いて物思う娼婦を描いた作品で、清方によれば好評だった。日本画会の展覧会には、ふだん展覧会へ行かない人々も永洗の肉筆を目当てに訪れた。一方、浮世絵系の作として画品が卑しいと評する声もあった。明治38年(1905年)、肺結核で世を去る。病床で書いていた遺言状には、計画中の画会「藻斎会」など、絵のことばかりが記されていた。
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