団体
サロン・ドートンヌ
さろんどーとんぬ
サロン・ドートンヌ(さろんどーとんぬ)は、毎年秋にパリで開かれる美術展覧会で、名は「秋のサロン」を意味する。春に開かれる既存のサロンの保守性に反発して、1903年に建築家フランツ・ジュールダンを会長に、マティス、ルオー、ヴュイヤールらが創設した。1905年の展覧会でフォーヴィスム(野獣派)が生まれ、1910年代にはキュビスムの拠点にもなった。併せて開いたセザンヌやゴーギャンの大規模な回顧展は、若い世代の画家たちに大きな影響を与えた。
出典: コトバンク「サロン・ドートンヌ」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書(中山公男)・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/さろんどーとんぬ-3153293、ja.wikipedia「サロン・ドートンヌ」(2026-09-07 版、2026-10-11 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/サロン・ドートンヌ、コトバンク「フォービスム」(日本大百科全書(大森達次)・改訂新版 世界大百科事典(中山公男)ほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/ふおーびすむ-3167027
年表・沿革
1903
- 建築家フランツ・ジュールダンを中心に創設され、グラン・パレの会場を断られたため、10月31日から12月6日まで、プティ・パレの地下で第1回展を開いた。
1904
- 会場をグラン・パレに移し、セザンヌ、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ルドン、ルノワール、ロートレックにそれぞれ一室を充てた。
1905
- マティスらの強烈な色彩の絵を集めた第7室を、批評家ルイ・ヴォークセルが10月17日付の『ジル・ブラス』紙で「野獣(フォーヴ)に囲まれたドナテッロ」と評し、フォーヴィスム(野獣派)の名が生まれた。
1906
- ゴーギャンの回顧展を開き、油彩から版画、陶器まで227点を並べた。
1907
- 前年に没したセザンヌをしのぶ回顧展を開いた。
1912
- キュビスムの画家たちを集めた第11室と外国人の画家の多さが非難を浴び、論争は12月3日に下院にまで及んだ。
1919
- 第一次世界大戦で1914年から途絶えていた展覧会が11月に再開され、初めて出品した藤田嗣治は6点すべてが入選して、その年のうちに会員に推された。
1920
- 大統領令により、サロン・ドートンヌ協会が公益に資する団体(établissement d'utilité publique)と認められた。
関連人物
- 創設者・初代会長 フランツ・ジュールダン 1903〜
建築家。サマリテーヌ百貨店の旧店舗を設計した
- 創設に参加 ウジェーヌ・カリエール 1903〜
象徴主義の画家。国民美術協会の会長が出品者の締め出しを図ると、サロン・ドートンヌの側につくと表明して新しいサロンを守った
- 創設に参加 エドゥアール・ヴュイヤール 1903〜
ナビ派の画家
- 創設に参加 フェリックス・ヴァロットン 1903〜
スイス出身の画家・版画家
- 創設に参加、のち会長 ジョルジュ・デヴァリエール 1903〜
象徴主義の画家。ジュールダンの没後、1936年に会長に選ばれた
- 出品者・審査員
- 出品者 ポール・セザンヌ 1903〜1906
1903年の第1回展から毎年出品し、1904年の展覧会では一室を与えられて31点を並べた。没後の1907年には56点の回顧展が開かれた。
- 批評家 ルイ・ヴォークセル 1905〜
1905年の展覧会評で、マティスらの部屋を「野獣(フォーヴ)に囲まれたドナテッロ」と評した
- ピエール=オーギュスト・ルノワール 1905〜
1904年の展覧会で一室を与えられ(35点)、1905年に名誉総裁の称号を受けた。
- 出品者 アンドレ・ドラン 1905〜
1905年に油彩5点とパステル4点を出し、マティスらと並んだ第7室がフォーヴィスムの名のもとになった。1906年にはロンドンの連作のチャリング・クロス橋を出した。
- 出品者 フェルナン・レジェ 1910〜
1907年の展覧会でセザンヌの回顧展に強く打たれた。1910年の展覧会でメッツァンジェ、ル・フォーコニエと同じ第8室に出品し、1912年には《青衣の女》を出したほか、アンドレ・マールとデュシャン=ヴィヨンの「キュビスムの家」に《踏切》を出した。
