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主義・運動

フォーヴィスム

ふぉーゔぃすむ

フォーヴィスム(ふぉーゔぃすむ)は、20世紀の初めにフランスで起こった絵画の革新運動で、フォービスムとも書き、「野獣派」「野獣主義」と訳される。原色を大胆に並べる強い色彩と荒々しい筆づかいで、色彩を物の再現の役割から解き放った。名は、1905年のサロン・ドートンヌで、マティスやドラン、マルケらの絵が並んだ第7室を見た批評家ルイ・ヴォークセルが、部屋の中央の古典的な彫刻を「野獣(フォーヴ)に囲まれたドナテッロ」と評したことに由来する。理論や宣言で結ばれたグループではなく、運動は1905年から1907〜08年ごろまでの数年で終わり、画家たちはそれぞれの道へ進んだ。

出典: コトバンク「フォービスム」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書(大森達次)・改訂新版 世界大百科事典(中山公男)・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2026-10-12 取得) https://kotobank.jp/word/ふおーびすむ-3167027、テート「Fauvism」(Art Terms、2026-10-12 取得) https://www.tate.org.uk/art/art-terms/f/fauvism、ja.wikipedia「フォーヴィスム」(2026-10-10 版、2026-10-12 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/フォーヴィスム、en.wikipedia「Fauvism」(2026-09-24 版、2026-10-12 取得) https://en.wikipedia.org/wiki/Fauvism

年表・沿革

  1. 1901

    • パリのベルネーム=ジュヌ画廊でゴッホ展が開かれ、ヴラマンクら、のちのフォーヴの画家たちに大きな啓示を与えた。
  2. 1905

    • 夏、マティスとドランが南仏の港町コリウールでともに制作し、強い原色を並べるフォーヴの様式へ進んだ。
    • 秋のサロン・ドートンヌの第7室にマティス、ドラン、マンギャン、マルケ、カモワン、ヴラマンクらの絵が並び、批評家ルイ・ヴォークセルが10月17日の『ジル・ブラス』紙に「野獣(フォーヴ)に囲まれたドナテッロ」と書いたことから、フォーヴィスムの名が生まれた。
  3. 1907

    • この年にセザンヌの芸術が決定的に見直され、それがフォーヴィスムの終わりに大きく作用した。
  4. 1908

    • このころまでに主な画家の多くがフォーヴィスムの激しい表現を離れてそれぞれの道へ進み、グループはばらばらになった。
  5. 1912

    • 日本で萬鉄五郎が《裸体美人》を描き、この年のフュウザン会の第1回展にもフォーヴィスムの傾向をもつ作品が並んだ。
  6. 1926

    • 5月、フランスで学んで帰った里見勝蔵、前田寛治、佐伯祐三らが一九三〇年協会を結成し、フォーヴィスムを基調とする運動を進めた。

関連人物

  • 画商
    ベルト・ヴェイユ 1901〜

    1901年にパリで画廊を開き、フォーヴやキュビスムの若い画家たちの作品を扱った。この画廊はフォーヴの画家たちの発表の場の一つとなった

  • 画家
    アンリ・マンギャン 1905〜

    ギュスターヴ・モローの教室でマティスやカモワンと学び、1905年のサロン・ドートンヌの第7室に出品した

  • 画家
    シャルル・カモワン 1905〜

    マルセイユ生まれ。モローの教室でマティスと知り合い、1905年のサロン・ドートンヌの第7室に出品した

  • 画家
    ジャン・ピュイ 1905〜

    カリエールの画塾でマティスやドランと交わり、1905年のサロン・ドートンヌに出品した

  • 批評家
    ルイ・ヴォークセル 1905〜

    1905年のサロン・ドートンヌの評で「野獣(フォーヴ)」の語を使い、運動の名のもとをつくった。1908年にはキュビスムの名のもとになる評も書いた

  • 1905年の夏、コリウールでドランとともに補色をぶつける描き方へ進み、秋のサロン・ドートンヌに開いた窓帽子の女を出した。批評家ヴォークセルが「野獣(フォーヴ)」と呼んだこの一団の中心と、すぐに見なされた。

  • 1905年の夏、コリウールでマティスとともに、大胆な原色と激しい筆触で描き、秋のサロン・ドートンヌでフォーヴ(野獣)の一人と目された。1905〜06年は、ヴラマンクとともにもっとも鮮烈な色を使う典型的なフォーヴの画家で、マティスとともに運動の指導者とされる。

  • 1905年にマティスらとフォーヴィスムの運動に加わったが、過激な表現は好まなかった。

  • 1905年、マティスの《豪奢・静寂・逸楽》に心を動かされて、それまでの印象主義的な描き方を捨て、フォーヴィスムに加わった。

  • 1900年にドランと出会ってシャトゥーでともに制作し、1905年のサロン・ドートンヌに出品してフォーヴの一員となった。

  • 1905年のフォーヴィスムの誕生をきっかけにその作風に転じたが、1907年秋のセザンヌの回顧展に衝撃を受け、ピカソとともにキュビスムへ向かった。

  • モローの同門のマティスらと1905年のサロン・ドートンヌに出品してフォーヴィスムの一翼を担ったとされるが、その周辺にいて方向の異なる独自の表現主義の画家とみる辞典もある。

  • 画家
    オトン・フリエス

    ル・アーヴル出身。同郷のデュフィやブラックとともに、やや遅れてフォーヴィスムに加わった。晩年はフォーヴ時代の鮮やかな色を捨てて落ち着いた色調に戻った

  • オランダ生まれの画家で、1905年のサロン・ドートンヌに出品し、強い原色で夜のパリの踊り子や芸人を描いて、フォーヴの一員と目された。

  • 東京美術学校の高学年だった1910年前後から後期印象派やフォーヴィスムに傾き、卒業制作裸体美人(1912年)を自ら「ゴッホやマチスの感化のある」ものと語った。この作は日本のフォーヴィスムの先駆的作品とされる。

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