団体
白馬会
はくばかい
白馬会(はくばかい)は、1896年(明治29年)に黒田清輝・久米桂一郎らが明治美術会を離れて結成した、洋画を中心とする美術団体。黒田らがフランスから持ち帰った明るい外光派の画風で「新派」「紫派」と呼ばれ、旧派・脂派と呼ばれた明治美術会を圧倒して、明治後期の洋画壇の主流となった。会名は、同志がしばしば白馬(しろうま。どぶろくのこと)を飲みながら語り合ったことに由来する。1910年までに13回の展覧会を開き、付属の洋画研究所でも後進を育てたが、1911年に解散し、中堅の会員たちは翌年、光風会を結成した。
出典: コトバンク「白馬会」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・百科事典マイペディア・改訂新版 世界大百科事典(原田実)・日本大百科全書(佐伯英里子)・ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典・旺文社日本史事典、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/白馬会-113815、国立国会図書館 電子展示会「近代日本とフランス―憧れ、出会い、交流」第2部第2章「日本国内におけるフランス美術の影響」(2026-10-11 取得) https://www.ndl.go.jp/france/jp/part2/s2_2.html、コトバンク「光風会」(改訂新版 世界大百科事典(原田実)・日本大百科全書(佐伯英里子)・ブリタニカ国際大百科事典ほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/光風会-63079
年表・沿革
1896
- 黒田清輝・久米桂一郎らが、明治美術会の官僚的な組織や暗い画風に飽き足らずに同会を退いて結成し、岩村透・山本芳翠・藤島武二・岡田三郎助・和田英作らが加わった。
- 10月、岡倉天心の率いる日本絵画協会と合同で第1回展を開いた。
1897
- 第2回展に、黒田清輝が《智・感・情》を出した。
1899
- 赤坂溜池にあった合田清の製版所の一角に洋画研究所を開き、のちに白馬会葵橋洋画研究所と名を改めて、多くの若者が学んだ。
1903
- 白馬会賞(白馬賞)を設け、第8回展で青木繁が《黄泉比良坂》などの神話の画稿により第1回の賞を受けた。
1904
- 第9回展に青木繁が《海の幸》を出し、評判を呼んだ。
1911
- 前年の第13回展を最後に、3月に解散した。
1912
- 中堅の会員だった中澤弘光・山本森之助・三宅克己・杉浦非水らが発起人となり、光風会を結成した。
関連人物
- 創立者 久米桂一郎 1896〜
パリで黒田清輝とともにコランに学んだ洋画家。会の研究所と展覧会をおこし、東京美術学校教授を務めた
- 創立会員 岩村透 1896〜
美術史家・評論家。東京美術学校で西洋美術史を教えた
- 創立会員 和田英作 1896〜
黒田清輝の天真道場で学んだ洋画家。のち東京美術学校校長
- 創立会員 安藤仲太郎 1896〜
高橋由一の甥で、肖像画を得意とした洋画家
- 創立会員 長原孝太郎 1896〜
号は止水。漫画や挿絵、装幀でも知られた洋画家
- 創立会員 合田清 1896〜
木口木版の版画家。その製版所の一角に会の洋画研究所が置かれた
- 創立会員 佐野昭 1896〜
工部美術学校でラグーザに学んだ彫刻家
- 出品者
- 研究所で学び、展覧会に出品 萬鉄五郎 1905〜1910
1905年から本郷菊坂の白馬会第二洋画研究所(菊坂研究所)に通い、長原孝太郎・小林鍾吉の指導を受けた。1910年5月の白馬会第13回展に《花》《雪》《夜》を出した。
- 洋画研究所で学ぶ 中村彝 1906〜1907
1906年、白馬会の葵橋洋画研究所に入って黒田清輝に学び、中原悌二郎・鶴田吾郎と知り合った。翌年、太平洋画会研究所に移った。
