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青木繁

青木繁

あおきしげるAoki Shigeru
8 作品

海の幸で知られる青木繁は、絵筆でアレクサンドロス大王に並ぼうとした。「自伝草稿」には、絵の技で大王に匹敵するか、それ以上に偉大な人物になれるという決意を記している。

明治15年(1882年)、旧久留米藩士の家に生まれた。13歳頃から地元で洋画を習い、同い年の坂本繁二郎とは生涯の友となった。明治32年(1899年)に中学を退学して上京。画塾・不同舎で小山正太郎に学び、翌年、東京美術学校に入った。

学校では黒田清輝に学ぶ一方、近くの帝国図書館で「古事記」「日本書紀」や各地の神話の本を読んだ。古い物語を知ることが、絵の題材を探すことにもつながっていた。在学中、日本やインドの神話を描いた画稿類を白馬会展に出し、初めて設けられた白馬賞を受けた。

卒業した明治37年(1904年)の夏、坂本や恋人の福田たねらと千葉の布良へ写生に出かけた。大漁の陸揚げを見た坂本の話から想像をふくらませ、いま重要文化財となっている海の幸を描いた。画中でただ一人こちらを見る顔は、たねをモデルにしたとされる。秋の白馬会展で注目を集めたとき、青木は22歳だった。この年には海景(布良の海)や農家を描き、ラファエル前派の影響が色濃い天平時代にも取り組んでいる。

明治38年(1905年)、たねとの間に長男・幸彦が生まれた。同年の大穴牟知命は「古事記」に取材した神話画で、こちらを向く女神のモデルは、出産したばかりのたねといわれる。翌年末からはたねの実家に身を寄せ、のちに重要文化財となるわだつみのいろこの宮を描いた。

明治40年(1907年)、この絵を東京府勧業博覧会に出品した。前評判は高かったが、結果は三等賞の末席だった。青木は席次に納得できず、雑誌「方寸」で審査を批判した。同年、父の危篤を知らされて久留米に帰り、父の没後は母やきょうだいを扶養する立場になった。たねとも別れた。

やがて家族と衝突して郷里を離れ、九州各地を転々とした。放浪中も肖像画や注文による大作を手がけ、展覧会への復帰をめざしていたが、明治44年(1911年)、福岡市内の病院で肺結核のため没した。28歳だった。

翌年、坂本らの尽力で遺作展が開かれた。坂本はのちに実業家の石橋正二郎へ、青木の作品が散逸する前に集め、美術館を建ててほしいと伝えた。

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