団体
太平洋画会
たいへいようがかい
太平洋画会(たいへいようがかい)は、1901年(明治34年)に解散した明治美術会を受け継いで、満谷国四郎・吉田博・中川八郎・丸山晩霞・大下藤次郎・石川寅治ら中堅の洋画家が結成した美術団体で、1902年に第1回展を開いた。パリ留学から戻った中村不折・鹿子木孟郎や、ベルリンから帰った彫刻家の新海竹太郎も加わり、形を重んじる古典的な画風で、黒田清輝らの白馬会と並ぶ明治後期の洋画壇の中心勢力となった。1904年に開いた洋画研究所(1929年に太平洋美術学校と改称)からは、中村彝や坂本繁二郎らが育った。1957年に太平洋美術会と改め、今も続いている。
出典: コトバンク「太平洋画会」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書(佐伯英里子)・ブリタニカ国際大百科事典・旺文社日本史事典ほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/太平洋画会-91973、太平洋美術会 公式サイト「沿革」(2026-10-11 取得) https://www.taiheiyobijutu.or.jp/history、国立国会図書館 電子展示会「近代日本とフランス―憧れ、出会い、交流」第2部第2章「日本国内におけるフランス美術の影響」(2026-10-11 取得) https://www.ndl.go.jp/france/jp/part2/s2_2.html
年表・沿革
1902
- 1月、委員の提案で会名を太平洋画会とし、3月20日から上野公園の第五号館で第1回展を開いた。
1904
- 谷中清水町に夜間の洋画研究所を開き、翌年には谷中真島町に移して昼も夜も教える研究所にした。
1905
- パリ留学から戻った中村不折や鹿子木孟郎らが加わり、会は白馬会と並ぶ洋画界の中心勢力となった。
1907
- 第1回文展で中村不折・満谷国四郎・新海竹太郎らが審査員に任じられ、吉田博と中川八郎が三等賞を受けた。
1910
- 上野公園の竹之台陳列館で開いた第8回展で、荻原守衛がフランスとアメリカに留学していた間の作品42点を特別に陳列した。
1929
- 研究所を太平洋美術学校と改めた。
1947
- 第43回展のあと、石川寅治ら多くの会員が退会して示現会を結成した。
1957
- 会名を太平洋美術会と改め、戦災で焼けた太平洋美術学校を西日暮里に再建した。
関連人物
- 石川寅治 1901〜1947
明治美術会の後を受けて、満谷国四郎・吉田博・中川八郎らと結成し、主要会員となった(結成を1902年1月とする資料もある)。1904年から研究所(のちの太平洋美術学校)で後進を指導した。1947年に脱退した。
- 創立会員・会長 吉田博 1901〜1950
明治美術会の後を受けて、満谷国四郎・中川八郎・石川寅治らと結成した(結成を1902年とする資料もある)。1902年の第1回展に《榛名湖》など油絵13点を出し、没するまで会のためにつくした。1947年に石川寅治らが抜けて示現会を作ると、会長に推された。
- 創立会員・評議員 中川八郎 1902〜
明治美術会の後を受けて吉田博・満谷国四郎・石川寅治らと結成し(結成を1901年とする事典もある)、1902年3月の第1回展から出品した。評議員を務め、1910年には会の研究所で絵画を教えていた。会の仲間とは、1910年に小豆島を、1911年に瀬戸内海を写生して回った。
- 創立会員 丸山晩霞 1902〜1942
明治美術会を受け継いだ会の創立に加わり(結成を1901年とする事典もある)、1902年の第1回展に《初冬の朝》《森のもれ日》《野末の流れ》などを出した。その後も毎年出品を続け、没したときも会員だった。
- 創立会員・理事・評議員 大下藤次郎 1902〜1911
明治美術会を受け継いだ会の創立に加わり(結成を1901年とする事典もある)、1902年3月の第1回展に出品した。森鷗外の年譜によれば理事となり、のちに評議員となった。1910年に『太平洋画会画集』を編み、1910年の小豆島、1911年の瀬戸内海の写生旅行に会の仲間と出た。
- 会員・彫刻部の主宰 新海竹太郎 1902〜
ベルリンから帰った1902年に会員となって彫刻部を主宰し、第1回展にレリーフ《少女》を、1912年の第10回展には「浮世彫刻」と名づけた塑像の群れを出した。1904年に設立された同会の研究所で彫刻を教え、北村四海とともに堀進二・中原悌二郎・戸張孤雁らを育てた。
- 創立会員 満谷国四郎 1902〜1936
明治美術会の改組を受けて、1902年1月に大下藤次郎・中川八郎・吉田博らと結成した(1901年の結成とする事典もある)。3月の第1回展に《夕暮の小径》などを出し、文展が始まるまでは同会を足場に《楽しきたそがれ》《軍人の妻》《戦の話》などを発表した。研究所では中村彝らを指導した。没したときも会員だった。
- 会員 鹿子木孟郎 1904〜
パリ留学から戻って加わり、1904年の第3回展に出品した。滞欧作や日本の当代風俗を描いた重厚な作品を同会などの展覧会に次々と発表して、画壇での地位を固めた。1910年には同会の吉田博・中川八郎・満谷国四郎・中村不折ら10人で小豆島に写生旅行した。
- 会員 中村不折 1905〜1943
1905年にパリから帰ると会員となり、第4回展で滞欧中の作を特別に陳列して後進を啓発した。翌年から谷中真島町の研究所で教え、彫刻の新海竹太郎らとともに多くの美術家を育てた。研究所が太平洋美術学校に改まると初代校長を務め(就任を1929年とする資料と1934年とする資料がある)、没後は石川寅治が継いだ。1939年の第35回展では、素描と油絵あわせて65点を回顧陳列した。
- 研究所で学び、会員
