団体
帝国美術院
ていこくびじゅついん
帝国美術院(ていこくびじゅついん)は、1919年(大正8年)に文部大臣の管理の下に設けられた美術の機関。美術について文部大臣の諮問に答え、重要な事柄を建議したほか、文部省に代わって官設の美術展覧会(帝展)を開いた。文展のために置かれていた美術審査委員会を母体とし、1937年に帝国芸術院へ改組されて、今の日本芸術院につながる。
出典: 文部科学省『学制百年史』「一 芸術文化の行政」(2026-10-10 取得) https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317730.htm、日本芸術院 公式サイト「役割・沿革」(2026-10-10 取得) https://www.geijutuin.go.jp/about/、コトバンク「帝国美術院」(改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典・精選版 日本国語大辞典ほか、2026-10-10 取得) https://kotobank.jp/word/帝国美術院-574179
年表・沿革
1919
- 9月に帝国美術院規程が公布されて帝国美術院が設けられ、文展の審査にあたってきた美術審査委員会は廃止された。
- 初代院長に森鷗外、会員に竹内栖鳳・黒田清輝・高村光雲ら美術家13人が任じられ、横山大観と下村観山は会員就任を辞退した。
- 文部省に代わって第1回の帝国美術院展覧会(帝展)を開いた。
1923
- 関東大震災のため、この年の帝展を開かなかった。
1927
- 帝展の日本画・洋画・彫刻の3部に、第4部として美術工芸を加えた。
1935
- 松田源治文部大臣のもとで帝国美術院官制を定め、会員を30人から50人に増やして在野の団体からも作家を加えたが(松田改組)、美術界に大きな混乱を招いた。
1937
- 帝国芸術院へ改組された。
関連人物
- 初代院長 森鷗外 1919〜
1922年に没するまで務めた
- 幹事、のち院長 正木直彦 1919〜
院長は1931〜1935年
- 帝展審査員、会員 結城素明 1919〜1937
1919年の第1回帝展から審査員を務めた。1925年に会員に任命された。
- 帝展審査員・委員 石川寅治 1919〜1931
1919年の第1回帝展で審査員に選ばれ、以後たびたび審査員を務めた。1924年には委員だった。
- 帝展審査員 中川八郎 1919〜1921
1919年の第1回帝展で西洋画部の審査委員を務めた。20世紀日本人名事典は、1911年の第5回文展から1921年まで審査員を務め、帝展でも審査員を務めたと書く。
- 会員 中村不折 1919〜1937
1919年9月に会員に任じられ、帝展に《天の窟戸》《孟母断機》(1919年)、《賺蘭亭図》(1920年)、《盧生の夢》(1929年)、《蘇武之苦節》(1930年)、《酔李白》(1932年)などを出した。日本大百科全書は《賺蘭亭図》《盧生の夢》を歴史画の代表作に挙げる。1935年の改組のあとも、新しい帝国美術院の会員となった。
- 会員 新海竹太郎 1919〜
1919年に会員に任じられた。帝国美術院の開いた帝展には、《犍陟》(1919年、第1回)、《不動》(1920年、第2回)、晩年の東洋への傾倒を示す《老子》(1926年、第7回)を出した。
- 帝展審査員・会員
- 帝展出品者・無鑑査
- 竹内栖鳳 1919〜
会員となった。
- 帝展委員・審査員
- 審査員・会員 鏑木清方 1919〜1936
1919年の第1回帝展から審査員を務め、1927年の第8回帝展に出した《築地明石町》が帝国美術院賞を受けた。1929年に会員となったが、1936年の改組をめぐって、5月に安田靫彦・前田青邨らと意見書を出し、6月に横山大観・川合玉堂らとともに辞表を出した。
- 帝展出品者・審査員
- 帝展審査員 鹿子木孟郎 1922〜1934
1924年・1928年・1931年・1932年に帝展の審査員を務めた。帝展には1922年から1934年まで出品し、《加茂の森》《和辻博士像》《一つの林檎》《北海道層雲峡》《マドモアゼル喜多》《大台ヶ原山中》《浴女》などを出した。
- 出品者・審査員・参与
- 院長 福原鐐二郎 1924〜
1931年まで務めた
- 帝展委員・審査員、会員 西村五雲 1924〜1937
1924年の第5回帝展で委員となり、1925〜1931年の第6〜8回・第10回・第12回で審査員を務めた。1933年、山元春挙の没後の補充で会員となった。
- 帝展委員・審査員 野田九浦 1924〜1927
1924年に帝展委員となり、1925〜1927年の第6〜8回で審査員を務めた。
- 帝展出品、無鑑査 尾竹竹坡 1924〜1934
1922年の第4回帝展に日本画・洋画・彫刻の3部門で出品したが、すべて落選した。1924年の第5回で官展への出品を再開し、1927年の第8回で無鑑査に推されて、1934年の第15回の《日盛》まで出品を続けた。
- 会員 土田麦僊 1934〜
1929年に帝展へ戻り、1930年に帝展審査員、1934年10月20日に帝国美術院会員に任命された。
- 文部大臣 松田源治 1935〜
帝国美術院の改組を発表した
- 院長 清水澄 1935〜
帝国芸術院への改組後も院長を続けた
- 参与 小川芋銭 1935〜1936
1935年の帝国美術院の改組で帝展の参与に推され、1936年の改組第1回展に、文村横須賀からの遠望を描いた《暁烟》を出した。同じ年の6月、帝国美術院の会員を辞した日本美術院の同人たちにならい、中村岳陵・木村武山・石井鶴三とともに参与を辞退した。
- 横山大観 1935〜1937
帝国美術院の改革により会員に加えられた。
- 帝展無鑑査 北野恒富 1935〜1936
1935年に帝国美術院の無鑑査に指定され、1936年の改組第1回帝展に《いとさんこいさん》を出した。同じ年の6月、日本美術院の同人たちとともに帝展の指定を辞退した。
- 帝展審査員、会員
審査員に任じられたのちもしばらく出品せず、1926年の第7回帝展で8年ぶりに官展へ出品した。1930年に会員となった。
