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小川芋銭

小川芋銭

おがわ うせんOgawa Usen
4 作品

詩人の野口雨情は、水戸の新聞記者に「河童は天下一品です」と教えられるまで、小川芋銭を俳人だと思っていた。芋銭は牛久沼のほとりに暮らし、「河童の芋銭」と呼ばれた日本画家である。

慶応4年(1868年)、江戸赤坂溜池の牛久藩邸に生まれた。父は藩の大目付だった。明治4年(1871年)の廃藩置県で一家は牛久に移り、農業を営んだ。

絵の出発点は洋画だった。東京で親戚の洋画家・本多錦吉郎の画塾「彰技堂」に学んだ。政治家の尾崎行雄の推挙で「朝野新聞」の客員となり、帝国議会のスケッチや博覧会場の絵を描いた。

明治26年(1893年)、父の命で牛久に帰り、農業に就いた。暮らしを支えた妻のこうは、芋銭の分まで畑で働いた。その働きぶりに感心した父も、芋銭のことを何も言わなくなったという。

郷里の新聞や幸徳秋水らの「平民新聞」には、農民を主題にした風刺漫画を描いた。明治41年(1908年)、挿絵を集めた初の画集「草汁漫画」を出すと、新聞や雑誌からの依頼が増えた。

日本画はほぼ独学で、本格的に日本画家を目指したのは40代からだった。大正4年(1915年)、日本画家の平福百穂らと、洋画家や漫画家も交えた研究会「珊瑚会」をつくった。

大正6年(1917年)、第3回珊瑚会展の《肉案》に日本画家の横山大観が目をとめ、日本美術院の同人に推された。以後は院展に作品を出し続けた。

大正10年(1921年)には、水の怪と河童の群れを墨で描いた水虎と其眷族と、若葉の靄に集う木の精の若葉に蒸さるる木精を描いた。佐々木静一は世界大百科事典で、芋銭が水虎と其眷族などによって「近代文人画表現というべき新しい画境」を開いたと評している。

芋銭は牛久沼の伝説に興味をもち、河童などの不思議な生き物を、水郷の暮らしの言い伝えに重ねて描いた。そこには、人の力の及ばない自然を慈しむ姿勢も読み取れる。

俳句では「牛里」と号し、農本主義的な考えから自らを「農画工」と称した。牛久を訪ねた詩人の山村暮鳥は、芋銭を「日本のゴツホ」と呼び、「此のゴツホは土だらけのゴツホである」と書いた。

昭和12年(1937年)、牛久に住まい兼画室「雲魚亭」ができた。翌年1月30日の夜に脳溢血で倒れ、その半月後、河童の絵100図を集めた画集「河童百図」が出た。同年12月17日、牛久の自宅で没した。

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