団体
日本美術院
にほんびじゅついん
公益財団法人日本美術院(にほんびじゅついん)は、1898年(明治31年)に岡倉天心が、ともに東京美術学校を辞めた橋本雅邦・横山大観・菱田春草・下村観山らと創立した美術家の団体。主催する展覧会「院展」の名で親しまれている。経営難から1906年に絵画の研究所を茨城県五浦へ移し、団体としての活動はやがて途絶えたが、天心の没後の1914年に横山大観らが再興した。洋画部が抜け、彫塑部が解散してからは、日本画だけの団体になっている。
出典: 日本美術院 公式サイト「沿革 概要」(2026-10-10 取得) https://nihonbijutsuin.or.jp/his_gaiyou.php、日本美術院 公式サイト「理事長挨拶」(2026-10-10 取得) https://nihonbijutsuin.or.jp/about.php、コトバンク「日本美術院」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典ほか、2026-10-10 取得) https://kotobank.jp/word/日本美術院-110279
年表・沿革
1898
- 岡倉天心が、ともに東京美術学校を辞めた橋本雅邦・横山大観・菱田春草・下村観山らと創設し、10月に谷中初音町の研究所で開院式を挙げた。
1904
- 天心が横山大観・菱田春草・六角紫水を伴って渡米し、翌年にかけてニューヨークやロンドンなど欧米の都市で、大観・春草・下村観山らの展覧会を開いた。
1906
- 経営に行き詰まって規則を改め、絵画の第1部の研究所を茨城県五浦に移し、横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山が移り住んだ。
1914
- 前年に没した岡倉天心の一周忌に、横山大観を中心に谷中上三崎南町の研究所で再興の開院式を挙げ、10月に日本橋三越で再興記念展覧会(第1回の院展)を開いた。
1920
- 洋画部の同人がそろって院を去った。
1958
- この年2月に没した横山大観の意向により財団法人となり、安田靫彦が初代理事長に就いた。
1961
- 彫塑部が解散し、日本画だけの団体になった。
2011
- 公益財団法人となった。
関連人物
- 創立者 岡倉天心 1898〜
創立時は評議員長、1905年から主幹
- 創立に参加、再興の発起人・同人 木村武山 1898〜
1906年、研究所が茨城県五浦へ移ると、大観・春草・観山とともに移り住んだ
- 下村観山 1898〜
岡倉天心の辞任に行動をともにし、横山大観・菱田春草とともに創立に参加。1906年に研究所が茨城県五浦へ移ると、大観・春草・木村武山とともに移り住み、1914年に再興に加わった。
- 横山大観 1898〜
創立に参加。1914年に下村観山・木村武山らと再興し、以後長く主宰した。
- 山本昇雲 1898〜
日本美術院展に創立第1回展(1898年)から欠かさず出品し、入選作に一等褒状を受けた《野路雨》(第8回展)と《富岳》(第10回展)があるとされる。
- 正員 新海竹太郎 1898〜
1898年、岡倉天心が創設した日本美術院の創立に加わり、正員となった。この年の記念写真では、前列に尾形月耕・松本楓湖・橋本雅邦らと並んでいる。
- 研究生 野田九浦 1898〜
東京美術学校を退いたのちに入り、日本画を学んだ。
- 正員 菱田春草 1898〜
創立に参加した。1906年に研究所が茨城県五浦へ移ると、大観・観山・木村武山とともに家族を連れて移り住んだ。
- 賛助会員 水野年方 1898〜
1898年の創立に賛助会員として加わった(特別賛助員とも)。
- 尾竹竹坡 1899〜1908
日本絵画協会との連合絵画共進会(初期の院展)に出品し、研究会にも加わって、岡倉天心に将来を嘱望された。1900年の共進会に出した《地震》などで人気を集めたが、1908年に国画玉成会で天心と対立し、日本美術院とは道を分かった。
- 展覧会の出品者 森田華香 1900〜
1900年10月25日〜11月30日の第9回絵画共進会の出品目録に名がある。翌1901年4月のニューヨークの競売目録は、森田の絹本の絵4点を「岡倉教授の美術院の弟子たちの絵」の項に載せた。会員だったかどうかは確かめられていない。
- 再興の発起人・同人 今村紫紅 1914〜
第1回の院展に《熱国の巻》を出した
- 再興の発起人・洋画部の同人 小杉未醒 1914〜
のちの小杉放庵。1920年に院を去った
- 彫刻部の同人 平櫛田中 1914〜
- 同人 北野恒富 1914〜1947
1914年、横山大観の誘いで再興第1回院展に《願いの糸》を出し、大阪からただ一人加わった。1917年に同人となり、1946年の第31回展までほぼ毎年出品した。
- 院友 玉村方久斗 1915〜1919
1915年の再興第2回院展に《稲荷山・京護国寺・清水堂》で初入選し、翌1916年、研究生となるため京都を出た。1918年の第5回院展で《雨月物語》が樗牛賞を受け、院友に推された。因習的な日本画を嫌い、1919年の第6回院展への出品を最後に院を離れた。
- 同人 小川芋銭 1917〜1938
1917年5月の第3回珊瑚会展で《肉案》が横山大観の目に留まり、6月に推されて同人となった。同じ年の再興第4回院展に、霞ヶ浦を描いた「沢国五景」を初めて出し、以後、院展と日本美術院の試作展に出品を続けた。院展には《樹下石人談》(1919年)、《山彦の谷》(1921年)、「沼四題」(1922年)、《水魅戯》(1923年)、《夕風》(1924年)、《丹陰霧海》(1926年)、《海島秋來》(1932年)などを出し、1937年の《湖上迷樹》が最後の出品となった。1921年の日本美術院の米国展には水虎と其眷族若葉に蒸さるる木精を出した。1928年には同人たちが芋銭の還暦を祝った。
- 洋画部の出品者 萬鉄五郎 1917〜
二科展のほか院展洋画部にも作品を発表し、1917年の院展に《夏の真昼》を出した。
- 小林柯白 1918〜1943
1918年に第5回再興院展に初入選し、同じ年に院友となった。1924年に堅山南風・富取風堂らとともに同人に推挙され、没するまで同人だった。
- 特別賛助員
日本絵画協会との連合絵画共進会に出品して受賞を重ねた。円満な社交家で、美術院と各界をつなぐ役回りだった。
