団体
日本絵画協会
にほんかいがきょうかい
日本絵画協会(にほんかいがきょうかい)は、明治時代の美術家の団体。1891年(明治24年)に川端玉章の呼びかけで若い日本画家たちが日本青年絵画協会として結成し、東京美術学校長の岡倉天心を会頭に迎えた。1896年に東京美術学校の卒業生を加えて日本絵画協会と改め、春と秋の絵画共進会で、横山大観・菱田春草・下村観山ら日本画の革新派に発表の場を与えた。1898年からは日本美術院と連合で共進会を開いたが、1903年を最後に活動が途絶え、1905年に解散した。
出典: 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇』第1巻(芸術研究振興財団・東京芸術大学百年史刊行委員会 編、ぎょうせい、1987年)「日本青年絵画協会の発足」(東京藝術大学 近現代美術史・大学史研究センター公開の PDF、2026-10-11 取得) https://gacma.geidai.ac.jp/archives/100yh_fas01_071.pdf、『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇』第1巻(芸術研究振興財団・東京芸術大学百年史刊行委員会 編、ぎょうせい、1987年)「日本絵画協会創立と本校日本画教授陣の刷新強化」(同 PDF、2026-10-11 取得) https://gacma.geidai.ac.jp/archives/100yh_fas01_091.pdf、ja.wikipedia「日本絵画協会」(2022-02-22 版、2026-10-11 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/日本絵画協会、日本美術院 公式サイト「沿革 年譜」(2026-10-11 取得) https://nihonbijutsuin.or.jp/his_all.php、コトバンク「日本美術院」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典ほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/日本美術院-110279
年表・沿革
1891
- 川端玉章が川辺御楯らに呼びかけ、両者の門下などの30歳以下の青年画家で日本青年絵画協会をつくり、11月に上野公園の日本美術協会列品館で発会式を挙げて、東京美術学校長の岡倉天心を会頭に推した。
1892
- 10月、東京美術学校の校友会倶楽部で第1回の共進会を開き、以後は毎年開いた。
1896
- 3月、日本青年絵画協会に東京美術学校絵画科の卒業生が加わって日本絵画協会と改め、会頭に公爵の二条基弘、副会頭に岡倉天心が就き、菱田春草・下村観山・寺崎広業らが評議員に名を連ねた。
- 9月から上野で開いた第1回の共進会を日本画旧派・西洋画・日本画新派の3部に分け、西洋画の部では白馬会が第1回展を開いた。
1897
- 白馬会と旧派の日本画家が離れ、3月からの第2回共進会は日本画の革新派だけの展覧会となって、下村観山の《光明皇后》や菱田春草の《拈華微笑》が銀牌を受けた。
1898
- 10月、日本美術院の開院に合わせ、谷中の同院で美術院との連合による第5回共進会を開き、横山大観の《屈原》などが並んだ。
1903
- 10月の第15回共進会(日本美術院との連合では第10回)が、最後の展覧会になった。
1905
- 前年2月に岡倉天心が渡米してから会は実体を失い、この年に解散した。
関連人物
- 会頭・副会頭 岡倉天心 1891〜
1891年に日本青年絵画協会の会頭に推され、1896年の改称からは副会頭を務めた
- 設立に協力 川辺御楯 1891〜
川端玉章の呼びかけに応じ、門下の青年画家も会に加わった
- 会員・評議員 福井江亭 1891〜
師の川端玉章の構想を取りまとめて結成に奔走し、1892〜95年の共進会で審査員を務めた
- 会員・評議員 梶田半古 1891〜
1891年の結成に加わり、1896年の改称で評議員となった
- 会員・評議員・幹事 山田敬中 1891〜
- 会員・評議員 小堀鞆音 1891〜
- 会員・評議員 島崎柳塢 1891〜
- 会員・評議員 村田丹陵 1891〜
- 審査員・出品者 水野年方 1891〜1903
鏑木清方によれば、前身の日本青年絵画協会の創立のとき、すでに審査員25名の一人に名が挙がっていた。日本絵画協会の共進会では、1898年の第5回で褒状1等、1899年の第7回で《平忠度》が銅牌、1900年の第8回で《富峯》が銅牌、1902年の第13回で《橘逸勢女》が銀牌を受け、1903年の第14回と第15回にも出品した。
- 川端玉章 1891〜
若い画家が共同で研究する場として、玉章が各画塾の長に説いて回り設立された。事務所は玉章の家に置かれ、会頭には岡倉天心が就いた。
- 出品者 月岡耕漁 1894〜1899
日本青年絵画協会の第3回展(1894年)に《三礼図》、第4回展(1895年)に《競獅子》を出品して、ともに二等褒状を受けた。日本絵画協会となってからも、第2回展(1897年)に《春夏秋冬》、第7回展(1899年)に《秋の山里》を出品した。
- 会頭 二条基弘 1896〜
公爵
- 評議員 西郷孤月 1896〜
- 評議員・幹事 望月金鳳 1896〜
1898年に審査の方針に不満を持って離れ、日本画会をつくった
- 結成に参画 菱田春草 1896〜
1896年3月の結成に参画し、9月の第1回絵画共進会に《四季山水》を出して銅賞牌を受けた。初めて「春草」の号を使った。
- 出品 尾竹竹坡 1897〜
1897年から共進会に出品し、1898年から1900年まで3年続けて褒状1等を受けた(《空中声》《春曙》《四季山水》)。
- 出品者 楊洲周延 1897
1897年3月の第2回展に《汐干狩》を出品した(『明治期美術展覧会出品目録』)。
- 出品者 鏑木清方 1897〜1903
1897年の第2回絵画共進会に《ひなた》を出して初めて展覧会に出品し、1903年まで出品を続けた。日本美術院との連合絵画共進会に出した《孤児院》(1902年)と《秋宵》(1903年)が銅牌を受けた。
- 出品者 上村松園 1897〜1900
1897年の共進会に《頼政賜菖蒲前》を出して2等褒状を受けた。1900年の日本美術院との連合絵画共進会(DAJ は第9回日本絵画協会・第4回日本美術院連合絵画共進会とする)に出した《花ざかり》が銀牌を受け、画壇に広く認められた。
- 出品者 小原古邨 1899〜1903
日本美術院と連合で開いた絵画共進会に日本画を出品し、たびたび褒状を受けた。1900年秋の第9回展では二等褒状。師の鈴木華邨は共進会の審査員を務めていた。
