流派
歌川派
うたがわは
歌川派(うたがわは)は、江戸時代後期の浮世絵の流派で、西洋の遠近法を取り入れた浮絵で知られる歌川豊春を祖とする。門人の歌川豊国と歌川豊広の代に地盤が固まり、豊国の門から役者絵の国貞と武者絵の国芳が、豊広の門から風景画の広重が出た。幕末には浮世絵界の大半を歌川派の絵師が占め、明治以降も月岡芳年らを通じて画系が続いた。
出典: コトバンク「歌川派」(デジタル大辞泉・改訂新版 世界大百科事典(松木寛)・日本大百科全書(永田生慈)ほか、2026-10-10 取得) https://kotobank.jp/word/歌川派-440135
年表・沿革
1764
- 明和年間(1764〜72年)に入るころから、歌川豊春が浮世絵を描き始め、西洋の遠近法を使った浮絵で名を上げた。
1794
- 初代歌川豊国が役者絵の揃物《役者舞台之姿絵》を出し始め、一躍人気の絵師となった。
1811
- 歌川国芳が豊国に、歌川広重が豊広に入門した。
1827
- 国芳がこのころ《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》を出し始め、「武者絵の国芳」と呼ばれるようになった。
1833
- 広重が保永堂版《東海道五拾三次》を出し始め、風景画の絵師としての地位を固めた。
1844
- 歌川国貞が豊国の名を継ぎ、自らは2代を名乗ったが、今は3代豊国と数えられている。
関連人物
- 創始者 歌川豊春 1764〜
門人に初代歌川豊国・歌川豊広がいる
- 歌川広重 1811〜
- 歌川国芳 1811〜
- 歌川国明(二代) 1847〜
- 落合芳幾 1849〜
歌川国芳の門人で、画姓は歌川。
- 月岡芳年 1850〜
- 楊洲周延 1852〜
歌川国芳・三代歌川豊国・豊原国周と、歌川派の絵師に続けて学んだ。1882年の第1回内国絵画共進会の出品目録は「歌川派」として載せ、明治の書画家の番付も歌川派の項に名を挙げる。1890年の読売新聞は歌川派の得意を「官女ハ周延」と書いた。玉林晴朗の「歌川系図」は国周の門人に置く。
- 三代目歌川広重 1857〜
安政4、5年(1857、58年)ごろ初代広重に入門した(横田洋一の推定)。明治15年(1882年)の第一回内国絵画共進会には「歌川派、号広重、安藤徳兵衛」の名で出品した。
- 水野年方 1879〜
1879年に浮世絵の歌川派の月岡芳年の門に入り、錦絵を学んだ。1887年の東京府工芸品共進会の品評報告は「歌川派 水野年方」と記し、玉林晴朗編の「歌川系図」も芳年の門人に年方を載せる。
- 鏑木清方 1891〜
1891年に水野年方に入門し、歌川国芳から月岡芳年、年方へと続く画系に連なった。事典は、国芳の門が芳年・年方・清方・伊東深水と続いて現代に至ると書き、清方を歌川派の浮世絵から出た画家とする。
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月岡芳年の門人に名を連ね、「年甫」と号した。ただし門人とは名ばかりで、実質は独学だったとされる。
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歌川派の祖・歌川豊春の門人。門人は40名以上を数え、歌川派の中で最大の勢力を形成した。
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初代歌川豊国の門人。師の名の「国」の字と歌川の姓を名のることを許された(飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』)。関根只誠『名人忌辰録』は、豊国の門人に「国」の字を付けるのは国政から始まったとする。
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初代歌川豊国の門人。文化12年(1815年)の合巻には「一陽斎社中 歌川国直筆」と署し(一陽斎は師の豊国の号)、文政11年(1828年)の豊国の筆塚碑では「歌川総社中」に名を連ねた。飯島虚心は、師風をよく守った国安に対し、国直は師風を返じて別に一派を起こそうとしたと書く。
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歌川国芳の門人で、歌川を称した。
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月岡芳年(歌川国芳の門人)の門人。流派の欄の記録は典拠で割れ、『現代全国画家録』(1911年)は土佐派、1916年の番付は【浮世】、1919年の番付は【芳年】、井上和雄『浮世絵師伝』は月耕門人とする。
