歌川芳房
歌川芳房は、歌川国芳の門下で武者絵や横浜の異国人を描いた浮世絵師である。師の本の挿絵を補助し、師より先に世を去ったあと、国芳を悼む死絵に弟子の姿で描かれた。
天保8年(1837年)に生まれた。通称は大次郎で、一宝斎と号した。絵を描いたのは安政年間から万延元年(1860年)までである。
安政3年(1856年)には、清盛布引滝遊覧義平霊難波討図を出している。「平治物語」に取材し、悪源太義平の霊が、自分を討った難波次郎に復讐する場面を描いた。三枚の版画を横につないだ絵で、各枚に「一宝斎芳房画」と署名している。出版元の印は「近久」(近江屋)である。
本の挿絵では、国芳の仕事を手伝い、「芳房補助」「芳房補筆」と名を残した。安政6年(1859年)刊の「絵本豊臣勲功記」三編には、国芳の名とともに「門人一宝斎芳房」とある。翌年の四編・五編も二人の名で刊行された。「児雷也豪傑譚」などでも師の挿絵を補助する一方、人情本「松の花」では自分の名で挿絵を担当した。
万延元年には魯西亜人を出した。異国人の風俗などを描く横浜絵が、最も盛んになった時期の一枚である。日本語と外国語の言い方を並べた書き込みもあり、「長い」を「らんぐ」、「日光」を「ぞん」と紹介している。ただし、どの国の言葉かは記されていない。
版本で最後の仕事と見られているのは、国芳の画を補助した「不思議塚小説桜」二編である。刊行は翌年だが、出版の検査を受けた印は万延元年3月のものだ。その3か月後の6月10日、芳房は享年24で世を去った。法名は釈速入信士という。
師の国芳は、翌年の文久元年(1861年)に没した。同門の歌川芳富が描いた国芳の死絵には、先に世を去った芳房も登場する。画材の包みを背負い、旅姿の師の後ろを歩く弟子として描かれた。国芳の没日や法名と並んで、芳房の没年月日、享年、法名も書き添えられている。
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