
歌川国政
歌川国政は、役者の顔の癖をとらえた似顔で、師の初代歌川豊国をしのぐと評された浮世絵師である。江戸の紺屋(染物屋)で働いていたが、女方の中山富三郎を描いた団扇絵で評判を得た。
安永2年(1773年)頃、会津に生まれた。名は佐藤甚助、号は一寿斎。浮世絵師の渓斎英泉が残した『無名翁随筆』によれば、国政は生まれつき芝居好きで、わずかな暇を見つけては芝居に通った。勤め先の主人が豊国と親しく、その縁で豊国に絵を見せる機会を得た。豊国は、役者の顔の癖をとらえる腕には自分も及ばないところがあると認め、国政を門人にしたという。
中山富三郎の似顔は、本人がそばにいるようだと評された。当時は役者の半身を描いた団扇が流行していた。団扇問屋が国政に印刷用の下絵を頼むと、よく売れて利益を得た。『増補浮世絵類考』には、豊国の似顔を見た人々が、豊国のほうを国政の弟子だろうと言ったという話まで残っている。
活動期間は約10年だが、残された版画約120点の大部分は、寛政8年(1796年)から寛政11年(1799年)までの足掛け4年間に出た。大半は役者絵で、美人画や本の挿絵は少ない。写楽が姿を消したあと、豊国と国政は、役者の顔を大きくとらえた大首絵を盛んに描いた。
暫 市川鰕蔵の碓井荒太郎貞光もこの時期の作である。市川鰕蔵(五代目市川團十郎)が一世一代の「暫」を演じた舞台に取材している。美術史家リチャード・レインは、国政の作風を、写楽の強さと豊国の装飾的な華やかさを合わせようとしたものと評した。寛政11年(1799年)には豊国と合作し、役者36人の半身像に句を添えた絵本『俳優楽室通』を出している。
似顔の評判には、厳しい評価も伴った。英泉は、国政が似顔ばかりに力を注いで絵の学びを深めず、人物の体をうまく描けなかったと記している。浮世絵研究者ロジャー・S・キーズも、優れた作を高く評価する一方、作品の質にはかなりむらがあると指摘した。
文化3年(1806年)頃には絵をやめ、役者の似顔の面を作って売った。英泉によれば、子ども向けの品だったという。面は残っていない。文化7年(1810年)、38歳で没した。
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