団体
日本画会
にほんがかい
日本画会(にほんがかい)は、1897年(明治30年)に結成された日本画の美術団体。政治家の末松謙澄を会頭、美術商の林忠正を副会頭に迎え、荒木十畝・梶田半古・松本楓湖・水野年方・野村文挙らが加わった。日本画の旧派に属し、日本美術協会から分かれた団体とされる。毎年春に展覧会を開いて40年続いたが、1938年に会員総会で解散を決めた。
出典: ja.wikipedia「日本画会」(2026-07-09 版、2026-10-11 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/日本画会、東京文化財研究所 美術界年史(彙報)「日本画会解散」(1938年2月、2026-10-11 取得) https://www.tobunken.go.jp/materials/nenshi/4913.html、東京文化財研究所「荒木十畝」(『日本美術年鑑』昭和19・20・21年版 物故者記事・略年譜、2026-10-11 取得) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8613.html、コトバンク「末松謙澄」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・デジタル大辞泉・日本人名大辞典+Plusほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/末松謙澄-18528、コトバンク「林忠正」(日本人名大辞典+Plus・世界大百科事典(旧版)内の言及、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/林忠正-1102219
年表・沿革
1897
- 会頭に末松謙澄、副会頭に林忠正を迎えて結成され、荒木十畝が主任幹事として会を取り仕切った。
1898
- 日本絵画協会の審査の方針に不満を持った望月金鳳・野村文挙・鈴木華邨らが加わり、金鳳と文挙は審査員になった。
1923
- 荒木十畝が会を改革し、革新日本画会として新たに発足した。
1938
- 時代の移り変わりに伴う周囲の事情から、2月1日の会員総会で解散を決め、各方面に挨拶状を送った。
関連人物
- 会頭 末松謙澄 1897〜
政治家・文学者。伊藤内閣で法制局長官・逓信大臣・内務大臣を務めた
- 副会頭 林忠正 1897〜
パリで美術品店を開き、浮世絵など日本美術を紹介した美術商
- 創立会員・主任幹事 荒木十畝 1897〜
荒木寛畝の養子。1923年に会を改革した
- 評議員 水野年方 1897〜
1897年の結成に加わった(1898年とする典拠もある)。1898年5月の第1回展で評議員に推され、初めての大作《佐藤忠信参館図》を出した。この絵は宮内省の御用品となった。
- 審査員 野村文挙 1898〜
日本絵画協会の審査の方針に不満を持って移った。山水画を得意とした
- 審査員 望月金鳳 1898〜
日本絵画協会の審査の方針に不満を持って移った。日本美術協会に動物画を出品していた
- 審査員 福井江亭 1898〜
日本絵画協会で東京美術学校の卒業生に押されて活躍の場が減り、日本画会の設立に加わった
- 審査員 荒木寛畝 1898〜
花鳥画を得意とした旧派の重鎮で、荒木十畝の養父
- 富岡永洗 1898〜
松本楓湖・梶田半古らとともに創立し、創立委員・評議員に選ばれた。その展覧会に大作《井筒女之助》を出品し、のちに退会した。
- 出品者・幹事・審査委員 山川秀峰 1915〜1933
1915年の第17回展に《なだれ》、1917年の第19回展に二枚折半双の《水郷》を出した。1923年の第1回革新日本画会展に《雪女郎》を出してからも出品を続け、1929年に幹事となって、1931年の革新第8回展で幹事・審査委員、1933年の革新第10回展で審査委員を務めた。
- 創立会員 松本楓湖
歴史画を得意とし、安雅堂画塾から今村紫紅・速水御舟らを育てた
- 創立会員 梶田半古
1891年には日本青年絵画協会の創立にも加わった
-
日月会などとともに加わって活躍した。入会の年は分かっていない。
- 会員
明治41年(1908年)の『成功名家列伝』が会員とする。入会の年は分かっていない。
