
山崎年信
山崎年信は、西南戦争の錦絵や、坂本龍馬の物語を伝える新聞挿絵を描いた浮世絵師である。人物の姿勢を研究するため、写真屋でシャツ一枚になり、自分の姿を下絵の手本にした。
安政4年(1857年)、江戸の千住に生まれた。伝記を書いた島田筑波によれば、幼いころから武者絵が好きで、寺子屋でも手習草紙に絵ばかり描いていた。父に奉公へ出された近所の提灯屋では、紋や祝いのびらの絵を手伝った。
その提灯屋で描いた大行灯が、師との出会いにつながったという。初午の稲荷祭りに、川中島で信玄と謙信が一騎打ちする場面を描いたところ、通りかかった月岡芳年の目に留まった。芳年は少年を貰い受け、「年信」の号を与えたと筑波は伝える。入門は明治3年(1870年)ごろとされる。
芳年は、人物の骨格や姿勢を実際の人間から学ぶよう教えた。年信は劇場や相撲、踊りなど、目に触れるものを次々に写生した。芳年もその熱心さを愛し、弟子の写生帖を手元に置いて眺めていたという。年信はのちに、同門の稲野年恒・水野年方・右田年英とともに「芳年四天王」の1人に数えられる。
写真も、姿勢を学ぶ手立てだった。年信を知る文筆家の野崎左文によれば、自分を撮らせた写真を百枚、二百枚と蓄え、下絵を描くときには注文に合う姿勢を選んでいた。そのせいか、絵の人物は本人と同じ痩せた人ばかりだったと左文は回想する。西洋の遠近法を教わると、原書の図をすべて写し取った。背景を描くにも、下絵が朱線だらけになるほど苦心した。
明治10年(1877年)、西南戦争の錦絵で本格的に活動を始める。この戦争を描いた作品は30点余り確認されている。二十歳の年には、東京の案内書にも「有名の画家」として名が載った。
だが、酒が仕事に支障をきたすようになり、師との関係もこじれた。芳年の写生帖や粉本を持ち出した一件は、時期も経緯も記録によって食い違う。ただ、いずれの記録でも、この一件が師のもとを離れるきっかけになっている。その後、仕事の中心は新聞の挿絵へ移った。
大阪の「魁新聞」を経て、高知の「土陽新聞」では、坂本龍馬を主人公とする小説「汗血千里の駒」に絵を描いた。作者は坂崎紫瀾で、連載は明治16年(1883年)に始まった。挿絵は全66枚あり、そのうち38点に年信の落款がある。高知出身の評論家・田岡嶺雲は、この挿絵から受けた強い印象を『数奇伝』に記している。
暮らしが窮しても、絵を学ぶための出費はやめなかった。左文は、年信がわずかな金を得るたびに参考書を買い込んだと伝える。京都では「仙斎春香」と名乗り、「日出新聞」の挿絵を手がけた。京都で世を去った年には、明治18年(1885年)と翌19年(1886年)の両説がある。向島百花園の「月岡芳年翁之碑」には、先に世を去った門人として年信の名が刻まれている。
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