団体
国画玉成会
こくがぎょくせいかい
国画玉成会(こくがぎょくせいかい)は、明治時代に結成された日本画の新派の団体。1907年(明治40年)、文展の開設にあたって旧派の画家が審査委員の人選に反発し正派同志会をつくると、日本美術院を中心とする新派の諸団体がこれに対抗して9月に結成し、岡倉天心を会長に推して、古代の絵画法の復興・現代絵画の発達・世界的な趣味の調和を趣旨に掲げた。1908年の第2回文展では、審査委員に旧派の画家が加えられたことに反発して出品せず、上野公園の竹之台陳列館で独自の日本絵画展覧会を開いた。1909年の第3回文展で文部省と和解して出品に戻り、同じ10月に開いた研究会の展覧会が会として最後の展覧会になった。
出典: ja.wikipedia「国画玉成会」(2020-09-16 版、2026-10-12 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/国画玉成会、『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇』第2巻(ぎょうせい、1992年)第7節「明治40年」の「文展開設」(東京藝術大学 近現代美術史・大学史研究センター公開の PDF、2026-10-12 取得) https://gacma.geidai.ac.jp/archives/100yh_fas02_124.pdf、『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇』第2巻(ぎょうせい、1992年)第8節「明治41年」の「第二回文展と国画玉成会第一回展」(同 PDF、2026-10-12 取得) https://gacma.geidai.ac.jp/archives/100yh_fas02_136.pdf、『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇』第2巻(ぎょうせい、1992年)第9節「明治42年」の「第三回文展」(同 PDF、2026-10-12 取得) https://gacma.geidai.ac.jp/archives/100yh_fas02_142.pdf、田邉咲智「菱田春草の絵画表現における同時代性」関西大学審査学位論文(2021年)の本文と巻末「菱田春草 年譜」(2026-10-12 取得) https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/21766/files/KU-0010-20210331-22.pdf、山中夕起子「日本画家・尾竹竹坡の画業について―抒情画家・蕗谷虹児を理解するために―」『Core Ethics』Vol.5(立命館大学大学院先端総合学術研究科、2009年)(2026-10-12 取得) https://www.r-gscefs.jp/pdf/ce05/yy01a.pdf、日本美術院 公式サイト「岡倉天心(覚三)」(2026-10-12 取得) https://nihonbijutsuin.or.jp/his_tenshsin.php、泉屋博古館東京「特別展 オタケ・インパクト―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム」プレスリリース(2024年10月版、2026-10-12 取得) https://sen-oku.or.jp/wp-content/themes/senoku/_imageServer/press_241017_t_otakeimpact.pdf
年表・沿革
1907
- 9月1日、旧派の画家が8月に正派同志会をつくって文展への不出品を決めたのに対抗して、日本美術院と大同絵画会・紅児会・烏合会・巽画会などの新派の団体が結束し、岡倉天心を会長に推して創立した。
- 10月の第1回文展への出品に向けて、安田靫彦や尾竹竹坡が岡倉天心の意向で茨城県五浦の日本美術院研究所に滞在し、竹坡はここで入選作の《羅睺羅》を描いた。
1908
- 7月に文部大臣となった小松原英太郎が第2回文展の審査委員に正派同志会の高島北海・荒木十畝らを加えると、これに反発して岡倉天心・横山大観・下村観山は審査委員を辞め、会は文展への不出品を決めた。
- 10月15日、文展と同じ時期に上野公園の竹之台陳列館で第1回展にあたる日本絵画展覧会を開き、安田靫彦の《守屋大連》や下村観山の《大原御幸》が注目を集めた。
- 展覧会の翌日の懇親会で、審査員に選ばれなかった尾竹竹坡が岡倉天心を面と向かって責めて除名され、弟の尾竹国観も退会した。
1909
- 10月6日から不忍池畔の勧業協会で開いた研究会の展覧会が会として最後の展覧会となり、下村観山の《小倉山》が高く評価された。
- 10月15日からの第3回文展では文部省と岡倉天心の和解が成って会員が出品に戻り、天心・横山大観・下村観山も審査委員に復帰して、初めて新旧各派がそろう展覧会になった。
関連人物
- 会長 岡倉天心 1907〜
1908年の第2回文展では横山大観・下村観山とともに審査委員を辞し、1909年の第3回文展で文部省と和解して復帰した
- 発起人 高橋広湖 1907〜
- 評議員 木村武山 1907〜
1907年9月の創立で菱田春草らとともに評議員となり、1908年の展覧会に《祇王祇女》を出した
- 評議員 今村紫紅 1907〜
1907年に五浦の日本美術院研究所で岡倉天心の指導を受け、1908年の展覧会に《時宗》を出した
- 評議員 山中古洞 1907〜
- 評議員 上原古年 1907〜
幹事も務めた
- 評議員 三島蕉窓 1907〜
- 評議員 信近春城 1907〜
- 評議員 吉川霊華 1907〜
- 評議員 島田墨仙 1907〜
9月の創立総会で選ばれた
- 会員 鏑木清方 1907〜
1907年、烏合会など新派の諸団体が結束して発足したとき、安田靫彦・今村紫紅・菱田春草らとともに加わった。1908年の展覧会に出した双幅《花吹雪》《落葉時雨》が三等賞三席となった(一等・二等は該当作なし)。
- 評議員 菱田春草 1907〜
1907年9月の創立で木村武山らとともに評議員となった。1908年10月の第1回展では審査委員に選ばれたが、眼病の療養のため出品も審査もできなかった。同年12月からの研究会には《秋景山水図》などを出し、1909年10月の研究会展にも《秋木立》を出品した。
- 会員 尾竹竹坡 1907〜1908
弟の国観らと立ち上げた大同画会ごと結成に加わった。1908年10月、第1回展の翌日の懇親会で、審査員に選ばれなかったことから岡倉天心を面責して除名され、国観も退会した。
- 審査委員 梶田半古 1908〜
文展には出品しなかったが、1908年の展覧会では審査委員を務めた
- 評議員 武内桂舟 1908〜
- 会員 尾竹国観
1908年10月、兄の竹坡の除名に従って退会し、展覧会に出していた《絵踏》を会場から引き上げた
