
三代目歌川広重
三代目歌川広重は、自分では「三代目」を名乗らなかった絵師だ。初代広重の名を継いで「二代広重」と称し、明治の東京や横浜に現れた汽車や煉瓦街を錦絵に描いた。鉄道の開通を描いた錦絵の数は、絵師の中でいちばん多いとされる。
天保13年(1842年)、江戸の深川に船大工の子として生まれ、寅吉と名づけられた。16、7歳で料亭「百川」の養子になっても、絵師になりたい気持ちは変わらない。家を飛び出そうと、板前が作った煮出汁で足を洗ったところ、事情を知った主人が懇意の初代歌川広重に引き合わせたという。
入門してまもなく初代が世を去り、兄弟子の重宣が名を継いで二代目歌川広重となった。寅吉は重寅、のちに一笑斎重政と号した。慶応元年(1865年)、二代が妻のお辰と別れて師の家の安藤家を去ると、安藤家は重政を、初代の養女お辰の婿に迎えた。
ところが重政は「三代目廣重と名乘るなら、御免を蒙りたい」と言い、重宣の二代を取り消して自ら二代広重を名乗ったという。明治15年(1882年)には師の碑を建て、その碑を摺った刷物秋葉神社境内の広重碑を知人に配った。この刷物にも、朱の「二世」の印を捺している。重宣を二代、重政を三代と数え直したのは、没後の明治44年(1911年)、四代目歌川広重が名を継いだときだった。
名を継いだ重政が描いたのは、江戸から東京へ変わる町の姿だ。明治5年(1872年)、新橋と横浜の間に鉄道が開く。重政は開業の前に、想像を交えた東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図を出し、開業の翌年には駅の待合を東京汐留鉄道舘蒸汽車待合之図に描いた。研究者の横田洋一の数えでは、確かめられた開化絵だけでおよそ400種にのぼる。版の隅の届けには「画工安藤徳兵衛」とある。徳兵衛は、名を継いだときに改めた初代の通称だった。
晩年は無口になり、絵や先代のことを強いて聞かれると怒ることもあったという。明治27年(1894年)、数え53歳で没した。東海道の宿場の数と同じ齢で、辞世には「汽車よりも早い道中すご六は目の前を飛ぶ五十三次」と詠んだ。
明治の錦絵は、輸入顔料の強い赤から「赤絵」と呼ばれ、長く低く見られてきた。研究者の中山千代は1968年、その見直しで「特に目標になるのは、三代広重の絵である」と記した。横田は1987年、開化絵では量でも質でも同時代の絵師を圧倒する「第一人者」と評した。
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