
楊斎延一
明治の絵師・楊斎延一は、日清・日露戦争の浮世絵で名を上げた。旅順砲台ニ我軍進撃之図が売り出されたとき、旅順の陸戦はまだ始まっていなかった。戦況を知らせる絵に、起きていない戦いが描かれている。
師は浮世絵師の楊洲周延。姓は渡辺、のちに島田となり、名は次郎といった。明治20年(1887年)頃から作画を始め、美人画や風俗画を手がけた。国会議事堂之図や東京名所 帝国議事堂では、新しい時代の建物を描いている。
明治23年(1890年)には「男子教育出世双六」などの双六を描き、講談や実録本の口絵・挿絵も手がけた。真書太閤記 本能寺焼討之図は、秀吉の一代記『真書太閤記』から本能寺の変を取り出した歴史画である。延一の仕事には、読物の世界を絵にするものもあった。
日清戦争が始まると、浮世絵は戦況を届ける媒体になった。写真が新聞や雑誌に本格的に載るのは、この戦争のあとである。絵師の多くは日本に残り、電報の知らせをもとに、情報が古くならないうちに絵を売り出した。1年足らずの戦争中に出た戦争錦絵は約3,000点にのぼる。延一も戦争の図を描き、明治27年(1894年)11月刊の『日清戦争図会』の挿絵を担当した。
日清激戦 両将鳳凰城戦之図では、清の軍人・宋慶の名を添えて、将同士の一騎討ちを描いた。歴史家ジョン・ダワーはこの図を、戦場の混乱から一騎討ちを取り出した戦争錦絵の例に挙げている。大きな戦争が、名のある二人の勝負として語られる。
明治32年(1899年)には、能や狂言を題にした絵を「島田楊斎」の名で展覧会に出した。その後、日露戦争の浮世絵も手がける。冒頭の旅順の図が出たのは明治37年(1904年)3月だが、市街地への攻撃が始まるのは8月である。図柄は、明治33年(1900年)8月に北京の戦いに合わせて出した錦絵とよく似ている。刊行の日付をたどると、絵の中の激戦と、実際の戦争の進み方との隔たりが見えてくる。
晩年は肉筆画に取り組んだ。生没年は一般に明治5年(1872年)から昭和19年(1944年)とされるが、記録には異同が残る。
楊斎延一の作品をお持ちですか?
Cugiraで出品してみませんか?
























