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川端玉章

川端玉章

かわばたぎょくしょうKawabata Gyokusho
9 作品

川端玉章は、花鳥や山水をよくした明治の日本画家で、円山派の流れを汲む。東京美術学校の学生の前では、展覧会に出す壁画の柳を、一間ばかり飛びながら線を引いてたちまち描き上げたという。その手際は、学生たちには曲芸のように映った。学校へ出勤する前に10枚、15枚と絵を描くのも、玉章の自慢だった。

天保13年(1842年)、京都の蒔絵師の家に生まれた。父が出入りしていた三井家に丁稚奉公に出ると、絵の巧さを認められ、11歳で円山派の中島来章に入門する。「玉章」の名は、それ以前に習った円山派の松村玉文と、来章から一字ずつ取ったものといわれる。

幕末に江戸へ出たが、日本画を求める人は少なく、暮らしは苦しかった。錦絵の版下絵や眼鏡絵、新聞の付録画まで描いたという。明治5年(1872年)には、洋画家の高橋由一に油絵を学んだ。その画風には洋画の陰影法や遠近法を取り入れたとする評価がある一方、円山派の正統を継ぐものだという評価もある。

東京美術学校では円山派の絵を教え、時間があるかぎり写生して筆を離さなかった。同僚の日本画家、橋本雅邦とは並び評され、「写意」の雅邦に対して「写生の玉章」と比べられてきた。けれども玉章自身は、日本画には「少しウソを混ぜなければなりませぬ」と語っている。存在しない物を描くという意味ではない。対象の情意や勢いを頭の中に描き、それを筆に表すのだと説明した。よく見て描くことと、見たままを描くことは、玉章の中では同じではなかった。

明治22年(1889年)、英字新聞の主筆ブリンクリーは、偉大な現代画家の一人に玉章を挙げた。翌年の第3回内国勧業博覧会では、《墨堤春暁》が二等妙技賞を受ける。多くの辞典が代表作に挙げる作品である。明治29年(1896年)には帝室技芸員となった。

明治42年(1909年)には、小石川に川端画学校を開いた。門下からは、日本画家の平福百穂や結城素明らが育った。絵を教える仕事は、学校の外にも広がっている。小学校や家庭で筆の運びや着色の初歩を学べるよう、手本「習画百題」も刊行した。

明治後期の三越や高島屋の展示即売会では、玉章の絵はほかの画家をしのぐ人気を集め、高値で売買された。ところが大正2年(1913年)に没すると、後継者による系統立った顕彰がなかったこともあり、次第に忘れられていく。円山派の写生を重んじた画家として、その仕事を再び掘り起こしてきたのが、研究者の塩谷純である。

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