
下村観山
13歳の少年が描いた雪景色の山水を、新聞は「実に後世恐るべし」と評した。少年はのちに、横山大観・菱田春草と日本美術院を代表する画家となる下村観山である。重要文化財の屏風弱法師をはじめ、能の世界にも根ざした作品を描いた。
明治6年(1873年)、紀州徳川家に代々小鼓で仕えた能楽師の家に生まれる。幕府と藩の世が終わって家禄を失うと、一家は東京へ移った。絵を教えた祖父の友人は、まもなく観山を狩野芳崖に託す。芳崖はさらに、盟友の橋本雅邦に観山を紹介した。
東京美術学校の第1期生となった観山は、岡倉天心にとくに目をかけられた。卒業後は母校の助教授を務める。明治31年(1898年)、学校の内紛で校長の天心が職を追われると、観山も大観や春草らと学校を去り、天心たちと日本美術院を興した。
明治36年(1903年)、日本画家として初めて文部省留学生に選ばれ、イギリスへ渡る。その年の3月に出た『当世画家評判記』は、芳崖の門下にいたころは大家になると思われた観山も「二十歳過ぎれば只の人」で、近ごろは「西洋大家の画を焼直すものばかり」と評した。本の中の友人は「今度の洋行が実によい試金石だ」と励ます。
試金石の答えは、帰国後に移った五浦で示される。明治40年(1907年)、文部省が始めた美術展覧会、文展の第1回に、観山は屏風木の間の秋を出品し、高い評価を得た。観山の回想では、五浦に多い若杉の上の方を淡い緑で描き、下に枯れ枝をあしらったとき、毎日見に来ていた天心が膝をたたいて「ソレダ」と言った。続く大原御幸魔障も評判を呼び、雅邦の地位を継ぐのは観山のほかにないとまで言われた。
大正2年(1913年)に天心が世を去ると、観山は大観と日本美術院の再興に動き、暮れには実業家の原三溪に招かれて横浜の和田山へ移る。翌年、文展の審査員から大観の名が外された。再興の仲間で、のちに『日本美術院史』を書く斎藤隆三が決意を問うと、観山は「親のない後は兄弟です」と答え、その場で審査員の辞表に署名した。再興した日本美術院の展覧会には、白狐弱法師春雨と、3年続けて屏風の大作を出した。弱法師は、能楽師の家に生まれた観山が謡曲に取材した作品だ。父に捨てられて盲目となった俊徳丸が、四天王寺で沈む日を拝む姿を描く。
晩年は宋や元の中国画に通じる枯れた画風に傾き、仏画などを多く手がけた。大酒がたたって健康を損ね、亡くなる2週間ほど前には流動物ものみ込みにくかったが、見舞いに来た斎藤が帰るときには、庭に下りて下駄をはき、表門まで送ったという。昭和5年(1930年)5月10日、和田山の自宅で没した。
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