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魔障
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下村観山下村観山

魔障

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「魔障」とは、仏道の修行をさまたげるものをいう。この掛軸では、釈迦如来の前にいる僧に去来する煩悩を、十二支の動物になぞらえている。観山は《鳥獣戯画》を参考に、墨の線だけで描く白描画を試みた。

明治43年(1910年)、文部省の美術展覧会(文展)の第4回に出品すると評判を呼んだ。斎藤隆三の『日本美術院史』は、悪鬼や怪異が跳ね回るさまを軽妙な筆で写し、世をあげて「鳥羽僧正の再生」とたたえたと書く。同書は木の間の秋大原御幸とともに、五浦で描いた観山の三大傑作に数えている。

観山の回想では、天心は描き始めを見ただけでアメリカへ発ち、完成作も展覧会も見ていなかった。のちに横浜の実業家・原三溪の所蔵となって表装され、原の家で観山と一緒に見たとき、天心は「アノ魔に十二支をあしらつたのは面白い」と評した。観山は「私としては殆ど偶然の功名であつた」と振り返っている。

ジャンル
和・アジアン
作品種別
絵画
技法
紙本墨画/掛幅
制作年
1910
作品サイズ
63.6 × 172.7 cm

作家プロフィール

下村観山
下村観山

13歳の少年が描いた雪景色の山水を、新聞は「実に後世恐るべし」と評した。少年はのちに、横山大観・菱田春草と日本美術院を代表する画家となる下村観山である。重要文化財の屏風《弱法師》をはじめ、能の世界にも根ざした作品を描いた。 明治6年(1873年)、紀州徳川家に代々小鼓で仕えた能楽師の家に生まれる。幕府と藩の世が終わって家禄を失うと、一家は東京へ移った。

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