画壇
大阪画壇
おおさかがだん
大阪画壇(おおさかがだん)は、江戸時代から近代にかけて大阪で活動した画家たちの総称で、江戸時代の画家たちは大坂画壇とも呼ばれる。江戸時代には、酒造業を営みながら池大雅に絵を学んだ木村蒹葭堂を中心に、町人としての本業を持つ文人が多く絵を描き、京都の松村景文に学んだ西山芳園ら四条派の流れをくむ画家も活躍した。明治以降は新聞社や出版社の集まる大阪に全国から画家が集まり、大正から昭和前期にかけて北野恒富・島成園・菅楯彦・矢野橋村らが出て、画壇として最も盛んになった。
出典: 国立新美術館アートコモンズ「サロン!雅と俗 京の大家と知られざる大坂画壇」京都国立近代美術館 会場(2022年3〜5月)の展覧会概要(2026-10-11 取得) https://www.nact.jp/artcommons/user/detail/70308、ウィキペディア日本語版「大阪市」(2026-10-11 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/大阪市、コトバンク「木村蒹葭堂」(精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・改訂新版 世界大百科事典ほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/木村蒹葭堂-21582、大阪中之島美術館「開館1周年記念特別展 大阪の日本画」報道資料(2022年11月11日付、2026-10-11 取得) https://nakka-art.jp/wp10/wp-content/uploads/2022/11/osaka_nihonga_PR_2022.11.11.pdf
年表・沿革
1886
- 京都画学校に出仕していた四条派の深田直城が大阪に移り住み、大阪画壇の中心的な画家の一人となった。
1907
- 第1回文展で二等賞を得た野田九浦が、滝精一の推挙で大阪朝日新聞社に入り、挿絵を描きながら大阪画壇のために力を尽くした。
1912
- 北野恒富・野田九浦らが大正美術会を結成した。
- 堺の島成園が文展に初めて入選し、のちに京都の上村松園・東京の池田蕉園と並ぶ「三園」と称された。
1914
- 北野恒富が画塾「白耀社」を開き、中村貞以や女性画家の島成園・木谷千種ら多くの後進を指導した。
1924
- 新南画を進めた矢野橋村が、斎藤与里らと私立の大阪美術学校を開いて校長となった。
関連人物
- 四条派の画家 深田直城 1886〜
京都から大阪に移り、船場派の一系統を広めて後進を育てた
- 北野恒富の門人 中村貞以 1919〜
のちに日本美術院同人となった
- 大阪美術学校の創立者・校長 矢野橋村 1924〜
伝統的な文人画に近代的な感覚を取り入れた新南画を進めた
- 大坂画壇の中心的人物 木村蒹葭堂
大坂の酒造家に生まれた文人。池大雅らに絵を学び、知識人のサロンの主宰者のような立場にあった
- 文人画家 岡田米山人
大坂で米の商いを営みながら絵を描き、のちに津藩に仕えた。木村蒹葭堂と親しかった
- 四条派の画家 西山芳園
京都の松村景文に学び、子の西山完瑛とともに船場派の西山派を確立した
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1907年の大阪絵画春秋会、1912年の大正美術会、1915年の大阪美術会、1918年の大阪茶話会などを興し、画塾「白耀社」で後進を育てて、大阪画壇の中心となった。
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西垣香は雪鼎を「18世紀後半の大坂画壇で活躍した浮世絵師」とし、2023年の大阪大学と豊中市の展覧会は「大坂画壇を代表する」画家として紹介した。
