
野田九浦
野田九浦(のだ きゅうほ、1879〜1971)は、宗教家や歴史上の人物を描き、「歴史人物画の名手」と呼ばれた日本画家である。日蓮の説法を題材にした出世作《辻説法》にも、自分が共鳴する人物を、丁寧な考証と確かな描写で描く姿勢が表れている。
東京の下谷に生まれ、幼い頃に一家で函館へ移った。地元で絵を学び、明治28年(1895年)、日本画家の寺崎広業に伴われて上京した。翌年、東京美術学校の日本画科に入学するが、校長の岡倉天心が追われる騒動を機に退学。その後は白馬会の洋画研究所に通い、デッサンを学んだ。渡欧をめざしてフランス語を9年にわたり学んでもいる。俳人の正岡子規には俳句を習い、子規の自然主義の芸術論に触れたことを、のちに自身の芸術観の転機として振り返った。
明治40年(1907年)、第1回文展に出品した《辻説法》で一躍名を知られる。一等賞の該当作がなかったこの展覧会で、九浦は最高位の二等賞を受けた。作品は文部省が買い上げ、現在は東京国立近代美術館に所蔵されている。九浦は、どのような思いで描く人物を選んでいたのだろう。大正7年(1918年)の「帝国絵画宝典」には、こんな言葉が残っている。
「自分は元来花鳥山水のようなものは好まない、大抵こうした宗教家とかまたは歴史人物とか、自分の共鳴した題材を描く事が多い」
その共鳴を絵にするとき、九浦は線を重んじる伝統的な描き方を守った。横山大観や菱田春草が、輪郭線を目立たせない「朦朧体」を追った時代にも、その姿勢は変わらなかった。大正6年(1917年)の第11回文展では、六曲一双の《妙見詣》が特選に選ばれている。
《辻説法》を発表した年には大阪朝日新聞社へ入り、夏目漱石の小説「坑夫」の挿絵を描いている。友人や門人との写生旅行にも出かけ、数多くの写生帖を残した。風景画にも、必ずといってよいほど人や建物、家畜が描き込まれている。人物への関心は、過去の物語の外にも続いていたと読める。
関東大震災のあと、大正13年(1924年)頃に吉祥寺へ移り、亡くなるまで約50年をそこで過ごした。同じ頃に画塾の煌土社を興し、吉岡堅二らを育てた。昭和22年(1947年)には帝国芸術院会員となり、金沢美術工芸大学の教授も務めている。昭和37年(1962年)の新日展に出品した《広業先生》で描いたのは、若い日に自分を東京へ連れてきた師だった。
作品と遺品の多くは武蔵野市に寄贈され、吉祥寺美術館の構想は、その作品群を出発点として生まれた。屋敷跡には現在、吉祥寺東コミュニティセンターがあり、「九浦の家」の名で親しまれている。
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