画壇
京都画壇
きょうとがだん
京都画壇(きょうとがだん)は、江戸時代から近代にかけて京都で活動した画家たちの総称。江戸時代中期に円山応挙と呉春が写生にもとづく画風を広め、その流れが長く京都の主流をなした。明治以降は、1880年に開かれた京都府画学校(今の京都市立芸術大学の前身)と、1909年に開かれた京都市立絵画専門学校が多くの画家を育て、竹内栖鳳・山元春挙・上村松園らを生んだ。
出典: 国立新美術館アートコモンズ「円山応挙から近代京都画壇へ」京都国立近代美術館 会場(2019年11〜12月)の展覧会概要(2026-10-10 取得) https://www.nact.jp/artcommons/user/detail/62235、コトバンク「京都府画学校」(世界大百科事典(旧版)「画学校」の項、2026-10-10 取得) https://kotobank.jp/word/京都府画学校-1301629、コトバンク「京都市立絵画専門学校」(ブリタニカ国際大百科事典、2026-10-10 取得) https://kotobank.jp/word/京都市立絵画専門学校-52982
年表・沿革
1782
- 京都に住む文人・学者の人名録『平安人物志』の画家の部で、円山応挙が筆頭に挙げられた。
1789
- 呉春が京都の四条に移り住み、その画風はやがて四条派として円山派をしのぐ京都の画壇の中心になった。
1866
- 四条派の塩川文麟が京都の画家を集めて如雲社を結成し、明治の京都画壇の土台を築いた。
1880
- 田能村直入・幸野楳嶺・久保田米僊らの建議で京都府画学校が開かれ、大和絵・洋画・南画・漢画の四つの宗に分けて新人を育てた。
1909
- 京都市立絵画専門学校が開校し、竹内栖鳳・菊池芳文・山元春挙らが教授を務めた。
1918
- 土田麦僊・村上華岳ら京都の若い日本画家が文展を離れ、国画創作協会を結成した。
1937
- 竹内栖鳳が第1回の文化勲章を受けた。
1948
- 上村松園が女性で初めて文化勲章を受けた。
関連人物
- 如雲社の結成者 塩川文麟 1866〜
京都の画家を集めて結成し、明治の京都画壇の土台を築いた
- 如雲社の主宰 森寛斎 1877〜
塩川文麟の没後、京都画壇の中心として如雲社を率いた
- 京都府画学校の初代校長 田能村直入 1880〜
画学校の設立を建議した
- 京都府画学校の創立者の一人 久保田米僊 1880〜
- 京都市立絵画専門学校の教授 山元春挙 1909〜
竹内栖鳳と並ぶ明治後期の京都画壇の代表
- 京都市立絵画専門学校の教授 菊池芳文 1909〜
幸野楳嶺の門人
- 京都市立絵画専門学校の教諭 谷口香嶠 1909〜
竹内栖鳳・菊池芳文・都路華香と並ぶ楳嶺門の四天王
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新古美術品展で受賞を重ね、京都画壇の新鋭として注目された。
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1763年、沈南蘋の画風を取り入れた山水図・野馬図などの屏風の大作で、京都の画壇に高く評価された。
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文人画の豊かな叙情性と円山派の精緻な写生を融合させた画風が上層の商人に好まれ、四条派は円山派をしのぐ京都画壇の中心的存在となった。その流れは明治以後の京都画壇にも大きな影響を与えた。
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事典は、幸野楳嶺の門から出た「京都画壇を代表する」画家の一人に数える。1919年刊の『京都画壇之壱百人』にも項が立つ。
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1919年の『京都画壇之壱百人』は、浅井忠が没してから京都の洋画壇は実際に鹿子木の舞台だったと書く。泉屋博古館は京都洋画壇の中心的な作家とし、ウィキペディア日本語版は「関西洋画壇(京都画壇)に重きをなした」と書く。
