
呉春
呉春の名は、池田の古名「呉服(くれは)の里」と、そこで迎えた春に由来する。江戸時代の京都で四条派を開いた画家で、俳諧と絵の師である与謝蕪村の詩情に、円山応挙の写生を取り入れた。
宝暦2年(1752年)、京都で金座の年寄役を務める家に長男として生まれた。金座は幕府の金貨を造る所で、呉春も平役を務めた。絵はまず大西酔月に、ついで俳諧と絵を蕪村に学んだ。当時は月渓と名のり、蕪村の門下で早くから評価された。蕪村は呉春を「器用なる男(おのこ)」と言っている。
天明元年(1781年)、妻を海難事故で失い、同じ年に父も亡くなった。蕪村の勧めで摂津の池田に移り、療養した。頼ったのは、蕪村門下で呉服商を営む川田田福だった。翌天明2年(1782年)の春に呉春と改名したが、俳諧や俳画では生涯、月渓の名を使い続けた。
天明3年(1783年)12月25日の明け方、蕪村が没した。呉春は枕辺にいた一人で、その死の直前か直後に与謝蕪村像を描いた。病にやつれた師の姿を残す肖像である。
池田では、蕪村から学んだ技法に平明な自然観察を加え、新しい画風を確立した。代表作《柳鷺群禽図屏風》や、天明5年(1785年)の夏に描いた青天七十二芙蓉図屏風は、この池田時代の作品だ。
蕪村の没後は京都との行き来が増え、やがて四条東洞院に住んだ。天明7年(1787年)には、応挙が指揮する兵庫・香住の大乗寺の障壁画制作に加わった。応挙との関係を深め、その精緻な写生と蕪村ゆずりの叙情性を結びつけていった。寛政のはじめ、40歳前後で描いた白梅図屏風は、蕪村の様式から応挙の様式へ移り始めたころの作とされる。
寛政7年(1795年)、2度目に大乗寺の障壁画を手がけたときには、応挙の技法を完全に身につけていた。同じ年に応挙が没すると、呉春は写生派の中心になった。
軽妙で親しみやすい画風は京都の上層の商人に好まれ、四条派は円山派をしのぐ京都画壇の中心的存在になった。流派の名は、呉春や多くの弟子が四条の近くに住んだことにちなむ。門下には異母弟の松村景文や岡本豊彦らがいた。
呉春は文化8年(1811年)、60歳で没した。四条派は円山派と並び、明治以後の京都画壇にも大きな影響を与えた。
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