
北脇昇
北脇昇は、小箱に集めた小石や木片、貝殻を拡大レンズでのぞき、身近なものにシュルレアリスムの世界を見つけた画家である。植物の姿を人や飛行機に見立て、やがて易や自然科学を絵に取り込んだ。
明治34年(1901年)、名古屋に生まれた。8歳のとき、父が朝鮮半島へ渡ったため、京都の広瀬満正夫妻に引き取られた。満正は住友の初代総理人・広瀬宰平の長男で、昇の父の従弟にあたる。子のなかった夫妻は、昇を実の子のように育てた。北脇はその屋敷で生涯を過ごすことになる。
18歳で洋画家の鹿子木孟郎の画塾に入ったが、徴兵検査を機にやめ、しばらく制作から離れた。昭和5年(1930年)には洋画家の津田青楓に学び、二科展や独立展に出品するようになった。京都では前衛の画家たちが集まる研究所や団体の結成にも力を注いだ。
昭和12年(1937年)、それまでのフォーヴィスム調から画風を変え、庭木や拾った植物の実を拡大して描きはじめた。この年の第7回独立展に出品した独活では、二本の独活を踊る人に見立てている。切り株と並べたのは「うどの大木」のしゃれでもあった。空港では、楓の種子を飛行機に見立てた。
北脇は友人に、レンズを当てると目に見えるものがまるで違ってしまう、そこに超現実主義の世界があるのだ、という趣旨のことを語っている。
昭和14年(1939年)には美術文化協会の創立に加わった。関心は植物の形から、成長を支える法則へと広がっていく。ゲーテの植物学や色彩論、中国の易学を取り込み、周易解理図(乾坤)のような図式的な絵画を描いた。知識の体系を通してイメージをまとめようとした点に、日本のシュルレアリスム絵画における北脇の独自性があるとされる。
戦後も美術団体の活動を続け、昭和23年(1948年)には日本美術会の京都支部長となった。同年6月に肋膜炎で倒れ、その後にクォ・ヴァディスを描いた。
昭和26年(1951年)、肺結核のため50歳で世を去った。夫人のかねが寄贈した作品を中心に、東京国立近代美術館には油彩や素描など162点が残されている。
北脇昇の作品をお持ちですか?
Cugiraで出品してみませんか?
















