流派
円山派
まるやまは
円山派(まるやまは)は、江戸時代中期の京都で円山応挙が始めた日本画の流派。応挙は写生を重んじ、写実と伝統的な装飾性を融合した平明な画風を立てて、京都の商人から朝廷や寺社まで広く支持された。長沢蘆雪・源琦ら多くの門人が集まり、応挙の没後は長男の応瑞が継いで、その系統は幕末・明治の京都の日本画にまで続いた。
出典: コトバンク「円山派」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・山川 日本史小辞典ほか、2026-10-10 取得) https://kotobank.jp/word/円山派-636399、コトバンク「円山応挙」(改訂新版 世界大百科事典(河野元昭)・日本大百科全書・山川 日本史小辞典ほか、2026-10-10 取得) https://kotobank.jp/word/円山応挙-16656、コトバンク「円山四条派」(改訂新版 世界大百科事典(河野元昭)・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典、2026-10-10 取得) https://kotobank.jp/word/円山四条派-137761、ja.wikipedia「円山応挙」(2026-01-12 版、2026-10-10 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/円山応挙
年表・沿革
1766
- 円山応挙が名を「応挙」と改めた。
1786
- 門人の長沢蘆雪が、師の応挙に代わって南紀の寺々で障壁画を描いた。
1787
- 応挙が門人とともに、兵庫県香住の大乗寺の障壁画を手がけた。
1790
- 御所の造営にあたって応挙が一門を指揮して障壁画を描き、長男の応瑞も加わった。
1795
- 応挙が没し、長男の応瑞が円山派を継いだ。
関連人物
- 応挙の長男 円山応瑞
応挙の没後、円山派を継いだ
- 応挙の門人 源琦
駒井源琦とも。長沢蘆雪と並ぶ応門の二哲で、応挙の没後は応瑞を助けた
- 応挙の門人 山口素絢
応門十哲の一人。日本の美人画を得意とし、源琦の唐美人と並び称された
- 円山派の画家 森寛斎
応挙の門人・森徹山の養子。塩川文麟の没後、如雲社を率いて京都画壇の中心となった
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円山応挙に学び、応挙の門人のうち最も優れた10人「応門十哲」の一人に数えられる。
