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中

中村彝

なかむら つねNakamura Tsune
13 作品

中村彝(なかむら つね)は、絵が売れたお金でレンブラントの高価な画集を買い、手垢で黒くなるまで見返した。結核を患いながら、重要文化財エロシェンコ氏の像を描いた大正期の洋画家である。

明治20年(1887年)、水戸に生まれた。軍人を目指したが、明治37年(1904年)に結核を患って断念した。療養先の千葉の海岸で水彩画を始め、明治39年(1906年)に白馬会研究所へ入った。翌年、太平洋画会研究所に移り、中村不折と満谷国四郎に学んだ。

文展には2回続けて落選し、明治42年(1909年)の第3回展で初入選した。翌年には太平洋画会の会員となった。同年の第4回文展で海辺の村(白壁の家)が、翌年の第5回文展で女が三等賞を受けた。

明治44年(1911年)、新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵と黒光夫妻の厚意で、店の裏の画室に移り住んだ。夫妻は、食事もろくにとらずに描く彝を食卓に招き、家族のように迎えた。彝は夫妻の長女・俊子をモデルに小女や少女裸像を描き、次第に彼女に惹かれていった。だが、喀血の続く彝に、夫妻は娘を近づけなくなった。

大正3年(1914年)12月、伊豆大島へ渡った。翌年、ピエール=オーギュスト・ルノワールの《泉による女》が東京で展示されると知り、帰京して作品の前に何時間もたたずんだ。注文主は大原孫三郎で、制作を仲立ちしたのは彝の師の満谷国四郎だった。その後に描いた絵が「余りに今までと異っている」ことに、彝自身も驚いたという。

大正5年(1916年)、下落合にアトリエ付きの家を建て、亡くなるまでここで描いた。同年、第10回文展で田中館博士の肖像が特選を受けた。大正9年(1920年)には、友人の画家・鶴田吾郎が目白駅で見かけた盲目の詩人エロシェンコを、鶴田と並んで8日間描いた。エロシェンコ氏の像は第2回帝展に出品され、称賛を集めた。

関東大震災のあとも、壁の崩れたアトリエでカルピスの包み紙のある静物などを次々に描いた。発熱と喀血が続くなか、最後の力を振り絞った作品が頭蓋骨を持てる自画像と老母の像である。老母の像のモデルは家政婦の岡崎キイだった。大正13年(1924年)12月24日の朝、このアトリエで37歳で没した。看取る人はいなかったという。

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