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満谷国四郎

満谷国四郎

みつたに くにしろうMitsutani Kunishiro
7 作品

《軍人の妻》に描かれた日露戦争の未亡人の右目には、涙がある。満谷国四郎は太平洋画会を作った一人で、写実的な画風から出発し、のちに大きな色面で裸婦や風景を組み立てる画風へ転じた洋画家だ。

明治7年(1874年)、岡山県の総社、いまの総社市に生まれた。明治24年(1891年)に上京して画家の五姓田芳柳の門に入り、翌年、洋画家・小山正太郎の画塾「不同舎」に移った。

名を知られたのは、明治31年(1898年)の明治美術会創立10周年記念展に出した林大尉戦死之図だった。主題は、日清戦争で敵に軍用地図を渡すまいと口で裂いて自決した陸軍大尉。満谷は戦意をあおる意図をできるだけ排し、同時代の事件を冷静に記録する絵に仕上げた。この絵は記念展で皇室の買い上げとなった。

明治33年(1900年)、不同舎時代の友人で洋画家の鹿子木孟郎らとアメリカへ渡った。一行はボストンなどで展覧会を開いた。満谷はそこからヨーロッパへ渡り、パリではフランスの歴史画家ジャン=ポール・ローランスに学んだ。

翌年に帰国し、明治35年(1902年)、画家の吉田博や大下藤次郎らと太平洋画会を結成した。明治37年(1904年)の第3回展に出したのが《軍人の妻》だ。

明治40年(1907年)、初めて開かれた文展で審査員に任じられた。

明治44年(1911年)秋、大原コレクションで知られる大原孫三郎の援助で、ふたたびヨーロッパへ留学した。大正3年(1914年)に帰国するまでに、渡欧前の完成に近いアカデミックな技法を捨て、後期印象派の影響を受けた画風に転じた。

カーニュではルノワールを訪ね、セザンヌの作品からは造形的な特徴を採り入れたと指摘される。帰国後の試みは「画壇を駭かした」と、没後の「日本美術年鑑」に記されている。

大正10年(1921年)の樹下裸婦では、杏の木の下に裸婦がひざまずく。樹下の女性という日本の伝統的な主題を描きながら、物の境界は色と色を並べて示す。形を単純にし、画面を平面に近づける描き方だ。

大正14年(1925年)に帝国美術院の会員となり、聖徳記念絵画館の壁画も描いた。大正後期から昭和初めには中国を4回旅し、晩年には平明な色面と装飾的な表現に至った。帝展に出した小憩早春の庭緋毛氈は、後年の代表作に数えられる。

昭和11年(1936年)7月12日、東京・淀橋区の自宅で没した。

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