中川八郎
中川八郎(1877–1922)は、大阪で商売用の敷物の模様を描くところから絵の道に入った洋画家である。明治32年(1899年)に吉田博と渡米し、水彩画を売った旅費でヨーロッパを回った。太平洋画会の結成に加わり、文展では風景画で第1回から4回続けて賞を受けた。
明治10年(1877年)、愛媛県喜多郡天神村(いまの内子町宿間)に生まれた。幼くして父母を失い、大阪の叔父に引き取られた。
八郎という名にも、父と叔父の話が残る。二人とも弓の名手で、この子も弓の上手になれと「鎮西八郎」(源為朝)から名を取ったという。同門の小杉放庵が書き残した話である。中川自身も、仲間内の競射で15間の的に100射98中を当てたという。
初めは州山と号して日本画を学んだ。明治28年(1895年)、京都の博覧会で日清戦争を描いた油絵に心を動かされ、洋画に転じた。大阪で松原三五郎の手ほどきを受け、翌年に上京し、小山正太郎の画塾・不同舎に入った。
不同舎では、一つ年上の吉田に心服した。写生旅行にはいつも付き従い、一時は下駄屋の二階で自炊も共にしたが、やがて自分の技法を築き、初期の文展での名誉では吉田に一歩先んじたと、放庵は回想している。
明治32年の渡米では、デトロイト美術館での二人展が成功した。絵の代金でヨーロッパを回り、明治34年(1901年)に帰国した。画家の石井柏亭は、二人が水彩画を売って欧州を見学する例を開いたと書く。
帰国後、太平洋画会では評議員となった。同会は明治35年(1902年)に第1回展を開いた。
明治40年(1907年)に始まった文展では、《夏の光》《北国の冬》《瀬戸内海》で第1回から3回続けて3等賞を受けた。第4回は《巌壁》で2等賞を受けた。明治44年(1911年)の第5回から洋画部の審査員となり、帝展でも審査員を務めた。
太平洋画会の仲間とは写生旅行を重ねた。明治44年3月の瀬戸内海旅行の紀行には、愛媛の高浜港に近づく船から、中川の《瀬戸内海》で見覚えのある島山が見えたとある。同じ年の12月からは、画家の石川寅治・吉田と沖縄を回った。
大正7年(1918年)の第12回文展には勘察加の曠野を出した。勘察加はカムチャツカの古い書き方である。
大正11年(1922年)、3回目の渡欧の帰途にナポリで病にかかり、香港で重体となった。8月1日、危篤のまま香取丸で神戸に着き、3日に山手病院で没した。
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