団体
ウィーン分離派
うぃーんぶんりは
ウィーン分離派(うぃーんぶんりは)は、1897年にウィーンで結成された美術家の団体で、正式な名はオーストリア造形芸術家協会(Vereinigung bildender Künstler Österreichs)。保守的なウィーン美術家組合(キュンストラーハウス)を離れた画家・建築家・工芸家たちが、ミュンヘン分離派にならってグスタフ・クリムトを初代会長に結成し、歴史主義から離れた新しい芸術と、外国の新しい美術を紹介する展覧会を目ざした。1898年に建築家ヨゼフ・マリア・オルブリッヒの設計した展示館(分離派館)を建てて機関誌『ヴェル・サクルム(聖なる春)』を出し、絵画・建築・工芸を一つにする総合芸術を唱えて、オーストリアのユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)の中心となった。1905年にクリムトらが脱退したあとも団体は続き、いまも分離派館で現代美術の展覧会を開いている。
出典: コトバンク「分離派」(日本大百科全書(高見堅志郎)・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2026-10-12 取得) https://kotobank.jp/word/分離派-128712、コトバンク「ゼツェッシオン」(改訂新版 世界大百科事典(有川治男)・百科事典マイペディア、2026-10-12 取得) https://kotobank.jp/word/ぜつえつしおん-3230056、グスタフ・クリムト・データベース(クリムト財団)「Vienna Secession」(2026-10-12 取得) https://www.klimt-database.com/en/network-vienna-1900/spheres-of-activity/vienna-secession/、ウィーン分離派公式サイト「Künstler*innenvereinigung」(2026-10-12 取得) https://secession.at/kuenstlerinnenvereinigung、ja.wikipedia「ウィーン分離派」(2026-10-08 版、2026-10-12 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィーン分離派、de.wikipedia「Wiener Secession」(2026-09-30 版、2026-10-12 取得) https://de.wikipedia.org/wiki/Wiener_Secession
年表・沿革
1897
- 4月3日、クリムトを中心とする若い芸術家たちがオーストリア造形芸術家協会を結成し、5月24日に保守的なキュンストラーハウスへ脱退を書面で伝えた。
1898
- 3月、パークリングの園芸協会の建物を借りて第1回展を開き、ロダンやセガンティーニら外国の作家の作品も並んで、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が会場を訪れた。
- オルブリッヒの設計した展示館(分離派館)が10月に完成し、入口の上に「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」の標語を掲げて、11月の第2回展から使われた。
1902
- 4月から6月まで、マックス・クリンガーのベートーヴェン像を中心に据えた第14回展を開き、クリムトが壁画《ベートーヴェン・フリーズ》を描いた。
1903
- 会員のヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーが、分離派の理念を工芸で実践する工房として、ウィーン工房を設立した。
1905
- 6月14日、ミートケ画廊をめぐる投票を機に、クリムト、モル、ホフマン、モーザー、オットー・ワーグナーらが脱退し、残った会員はヨーゼフ・エンゲルハルトが率いた。
1918
- 3月の第49回展はエゴン・シーレの作品を中心に開かれ、シーレに画家としての決定的な成功をもたらした。
1945
- 1939年にキュンストラーハウスへ統合されて解散していた団体が、10月に「Vereinigung bildender Künstler Wiener Secession」の名で再建された。
関連人物
- 名誉会長 ルドルフ・フォン・アルト 1897〜
当時85歳の水彩画家。1898年3月、クリムトやモルとともに皇帝に第1回展への招待を伝えた
- 創立会員・副会長 カール・モル 1897〜
画家で画商。のちに会長も務めた。1905年にミートケ画廊の芸術監督となったことが会内の対立を招き、クリムトらとともに脱退した
- 創立会員 ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ 1897〜
オットー・ワーグナーの弟子の建築家。1898年に分離派館を設計し、1899年にダルムシュタットの芸術家村に招かれてウィーンを去った
- 創立会員 ヨーゼフ・ホフマン 1897〜
建築家。モーザーとともに展覧会の会場を手がけ、1902年の第14回展を指揮した。1903年にウィーン工房を設立し、1905年にクリムトらと脱退したが、第二次世界大戦後に復帰して会長を務めた
- 創立会員 コロマン・モーザー 1897〜
画家・デザイナー。分離派館の装飾を手がけ、1903年にホフマンとウィーン工房を設立した。1905年に脱退した
- 創立会員・会長 ヨーゼフ・エンゲルハルト 1897〜
画家。1900年と1910年に会長を務め、1905年にクリムトらが去ったあとは残った会員を率いた
- 通信会員 マックス・クリンガー 1897〜
ドイツの画家・版画家・彫刻家。1902年の第14回展は、彼のベートーヴェン像を中心に構想された
- 批評家 ルートヴィヒ・ヘヴェシ 1897〜
結成をいち早く報じた。分離派館の標語「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」は、彼が頼まれて考えた案から選ばれた
- 創立会員・初代会長
- 正会員 アルフォンス・ミュシャ 1897〜
パリに住みながら正会員となり、1898年1月の機関誌『ヴェル・サクルム』創刊号の会員名簿に名を連ね、同年の第1回展にも出品した。
- 通信会員 オーギュスト・ロダン 1897〜
結成まもなく通信会員に迎えられ、1898年の第1回展から出品した。1902年にウィーンを訪れ、第14回展の会場でクリムトと会った。
- 通信会員 フランツ・フォン・シュトゥック 1897〜
ミュンヘン分離派の創立者の一人。1898年1月の会員名簿に通信会員として載り、同年の第1回展に出品した。
- 後援者 カール・ウィトゲンシュタイン 1898〜
実業家で、哲学者ウィトゲンシュタインの父。分離派館の建設費を出した後援者の筆頭
- 通信会員 ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ 1898〜
1898年1月の会員名簿に通信会員として載り、同年の第1回展にパンテオンの壁画の下絵を出品した。
- 通信会員 ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー 1898〜
結成の年にクリムトから名誉会員に誘われ、のちに通信会員となった。1898年の第1回展には石版画が並んだ。
- 会員 ジョヴァンニ・セガンティーニ 1898〜
1898年の第1回展から作品が並び、没後の1901年には分離派が追悼展を開いた。
- 通信会員 エドワード・バーン=ジョーンズ 1898〜
1898年に通信会員となり、同年3月に始まった第1回展の目録の会員名簿に、ロンドン在住の通信会員として載る。
- 会員 オットー・ワーグナー 1899〜
建築家。ウィーン美術アカデミーでオルブリッヒやホフマンを教えた。1899年に入会し、1905年にクリムトらとともに脱退した
- 通信会員 チャールズ・レニー・マッキントッシュ 1900〜
1900年の第8回展(工芸展)に招かれ、妻マーガレット・マクドナルドやマクネア夫妻とともに一室を設えた。その作品はホフマンやモーザーらウィーンの作家に強い影響を与えた。
- 出品者 エゴン・シーレ 1918〜
1917年10月に会員に誘われ、翌年3月の第49回展の取りまとめを任された。この展覧会で中央の展示室に油彩19点と紙の作品29点を並べ、展覧会のポスターも描いて、画家として決定的な成功を収めた。
- 会員・名誉会長 オスカー・ココシュカ 1945〜
第二次世界大戦後の1945年、再建された分離派に迎えられ、1953年8月から名誉会長を務めた。
- 会員 ヘンリー・ムーア 1969〜
第二次世界大戦後の1969年6月に会員となった(分離派の会員名簿は正会員・名誉会員とする)。
- 通信会員 クリスト・ヤヴァシェフ 1979〜
第二次世界大戦後の1979年に通信会員となった。
- 通信会員 アンリ・カルティエ=ブレッソン 1985〜
第二次世界大戦後の1985年に通信会員となった。
- 通信会員
1898年の第1回展、1899年の第4回展、1900年の第8回展の目録の会員名簿に、ロンドン在住の通信会員として載る。
