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グスタフ・クリムト

グスタフ・クリムト

Gustav Klimt
16 作品

ウィーン郊外バウムガルテンの貧しい彫金師の家に生まれ、七人きょうだいの次男として育った。絵の才能は早くから明らかで、応用美術学校では歴史主義の装飾画で頭角を現し、弟エルンストや友人フランツ・マッチュと組んだ「芸術家商会」は劇場やブルク劇場の天井画で高い評価を得る。順風満帆に見えたキャリアは、しかし1890年代半ばに転機を迎える。ウィーン大学講堂のための哲学医学法学が発表されると、その裸体表現と厭世的なイメージが世論を激しく揺さぶり、教授陣から猛反発を受けた。結局作品は買い戻され、以後クリムトは公的な仕事から距離を置くようになる。

1897年、旧態依然としたウィーン美術家協会に反旗を翻し、ウィーン分離派を結成して初代会長に就任した。標語は「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」。分離派会館の建設や機関誌「ヴェル・サクルム」の刊行を通じて、彼はウィーンの美術界に新しい風を吹き込んだ。もっとも世紀末芸術の影響を受けつつも、エゴン・シーレのような若い世代とは違い、クリムトの画面には常に装飾と官能が同居していた。金箔を惜しみなく使う独自の様式は、父の職業である彫金の記憶とビザンティンのモザイク、日本の琳派や浮世絵から得た平面性への関心が結びついて生まれたもので、1907年から1908年にかけての「黄金の時代」に頂点を迎える。接吻アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Iはその象徴であり、抱き合う男女や着飾った女性を、金地の中に溶け込ませるようにして描いた。

女性像は彼の生涯を貫くテーマだった。上流階級の夫人たちの肖像を数多く手がける一方で、ダナエやユディトのように神話や聖書の女性を官能的に描き変え、当時のブルジョワ社会に静かな衝撃を与え続けた。恋人であったエミーリエ・フレーゲとは生涯にわたる深い関係を保ちながらも、多くの女性モデルとの間に複数の子をもうけたとも伝えられ、その私生活は謎に包まれている。晩年はアッター湖畔で夏を過ごし、印象派の影響を吸収した風景画も手がけた。1918年、スペイン風邪に併発した脳卒中により55歳で急逝。同じ年には弟子筋にあたるシーレも同じ病で世を去り、ウィーンの黄金時代は幕を閉じた。クリムトが切り開いた装飾と官能の融合は、その後のエゴン・シーレやオスカー・ココシュカらウィーン表現主義の世代に受け継がれていく。

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