団体
シュトゥルム
しゅとぅるむ
シュトゥルム(しゅとぅるむ)は、音楽・美術の批評家ヘルヴァルト・ヴァルデンが1910年にベルリンで創刊した芸術誌『デア・シュトゥルム』(「嵐」の意)と、その周りに集まった芸術家たちの活動。1912年に同じ名の画廊を開いて青騎士やイタリア未来派を紹介し、1913年の第1回ドイツ秋季サロンでは、表現主義・キュビスム・未来派をヨーロッパ全体の動きとして示した。出版や朗読会、美術学校、劇場にも手を広げてドイツ表現主義の理論の拠点となったが、ヴァルデンがソ連へ移った1932年に雑誌は終わった。
出典: コトバンク「シュトゥルム」(改訂新版 世界大百科事典(瀧田夏樹)・日本大百科全書(瀧田夏樹)、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/しゆとうるむ-3154465、コトバンク「表現主義」(改訂新版 世界大百科事典・百科事典マイペディアほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/表現主義-121240、Neue Deutsche Biographie「Walden, Herwarth」(カルラ・ビラング、27巻、2020年、2026-10-11 取得) https://www.deutsche-biographie.de/gnd118770950.html、artscape「Artwords『デア・シュトゥルム』」(沢山遼、2024-03-11 更新、2026-10-11 取得) https://artscape.jp/artword/6337/、de.wikipedia「Der Sturm (Zeitschrift)」(2026-07-12 版、2026-10-11 取得) https://de.wikipedia.org/wiki/Der_Sturm_(Zeitschrift)
年表・沿革
1910
- 3月3日、ヘルヴァルト・ヴァルデンがベルリンで『デア・シュトゥルム』を文化と芸術の週刊誌として創刊した。
- ヴァルデンの勧めでオスカー・ココシュカがベルリンへ来て、同誌にシュトゥルムの詩人たちの肖像素描などを寄せた。
1912
- 3月、ティーアガルテンの邸宅で青騎士の展覧会を開いて画廊を始め、4月にはイタリア未来派の展覧会を開いた。
1913
- 9月20日から12月1日まで、ベルリンのポツダム通りで第1回ドイツ秋季サロンを開き、12か国の作家による360点を超える作品を並べた。
1914
- 3月、同誌が主催する木版画の巡回展が東京でも開かれた。
1916
- 舞台・朗読・絵画・詩・音楽を教えるシュトゥルム美術学校を開き、絵画はゲオルク・ムッヘやパウル・クレーらが教えた。
1918
- 表現主義の演劇を後押しする「シュトゥルム舞台」を始め、同じ名の刊行物も出した。
1932
- ナチスが台頭するなかでヴァルデンがモスクワへ移り、雑誌もこの年の号を最後に終わった。
関連人物
- 創始者・主宰 ヘルヴァルト・ヴァルデン 1910〜
本名ゲオルク・レーヴィン。雑誌と画廊、出版を率い、1932年にモスクワへ移った
- オスカー・ココシュカ 1910〜
ヘルヴァルト・ヴァルデンが率いたベルリンの表現主義のサークル。雑誌『デア・シュトゥルム』の同人・挿絵画家として素描を寄せ、1912年にはヴァルデンの画廊で個展を開いた。
- 同人(詩人) アウグスト・シュトラム 1914〜
ヴァルデンに認められ、同誌に詩と戯曲を載せた。1915年に戦死した
- 東京での木版画展の開催者 斎藤佳三 1914〜
ベルリンで同誌を知り、山田耕筰とともに作品を持ち帰って、日比谷美術館で「デア・シュトルム木版画展」を開いた
- 東京での木版画展の開催者 山田耕筰 1914〜
作曲家。ベルリン留学から持ち帰った作品で、斎藤佳三と「シトゥルム木版画展覧会」を開いた
- 編集者 ローター・シュライアー 1916〜
1926年まで同誌の編集に携わり、シュトゥルム美術学校で舞台芸術を教えて、シュトゥルム舞台を率いた
- シュトゥルム美術学校の教師 ゲオルク・ムッヘ 1916〜
1914年にベルリンでシュトゥルムの仲間と知り合い、美術学校で絵画を教えた
- 協力者 クルト・シュヴィッタース 1919〜
1927年までヴァルデンの最も近い協力者の一人で、同誌で「メルツ」の芸術を打ち出した
