
ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー
James Abbott McNeill Whistler
6 作品
マサチューセッツ州ローウェルに生まれ、士官学校を素行不良で追い出されたあと、絵で身を立てようとパリに渡った。画塾ではグレールに学んだが、むしろ街で出会ったクールベの写実に強く揺さぶられ、初期の白のシンフォニー 第1番では厚塗りの筆致にその名残がある。だがロンドンに移り住んでからのホイッスラーは、絵から物語や道徳を一切引き剥がしていく方向へ向かった。目に映る色と形の釣り合いだけで絵は成立する――そう信じ、作品には灰色と黒のアレンジメント 第1番(母の肖像)のように音楽用語を冠した。テムズの夜霧を描いた黒と金のノクターン、落下する花火を評論家ラスキンが「観客の顔に絵具の缶をぶちまけた」と酷評すると、名誉を賭けて訴訟に打って出て、勝訴はしたものの賠償金はわずか一ファージング、法廷費用で自己破産に追い込まれるという皮肉な結末を迎えている。日本の浮世絵や陶磁に早くから傾倒し、着物姿の女性を描いた連作や、依頼主の邸宅を丸ごと孔雀の意匠で塗り替えた孔雀の間に、その傾倒がそのまま形になって表れた。テムズ川岸やヴェネツィアの運河を歩き回って刻んだ銅版画の連作も名高く、簡潔な線だけで水と光の湿り気を伝える技は同時代のどの版画家とも違っていた。蝶の形をしたサインを絵の隅に据える洒落っ気の一方で、社交界では毒舌家として恐れられ、オスカー・ワイルドらとも火花を散らした。装飾と絵画の境を軽々と越えたその態度は、のちのオーブリー・ビアズリーや世紀末デザインの感性に流れ込んでいく。晩年はパリとロンドンを行き来しながら制作を続け、1903年、ロンドンで没した。
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