主義・運動
ロマン主義
ろまんしゅぎ
ロマン主義(ろまんしゅぎ)は、18世紀末から19世紀前半にかけてイギリス、ドイツ、フランスを中心にヨーロッパに広がった文学・芸術・思想の運動。古典主義と合理主義に反発し、理性より感情、普遍より個性を重んじて、自然への新しい感情、神秘や無限へのあこがれ、異国趣味を表した。美術では一つのまとまった様式をもつとは言いがたく、イギリスのターナーとコンスタブル、ドイツのフリードリヒの風景画、フランスのジェリコーとドラクロワの劇的な歴史画が代表とされる。フランスでは1820年代、色彩と動きのドラクロワが旗手となり、素描を重んじる新古典主義のアングルと対立した。
出典: コトバンク「ロマン主義」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・改訂新版 世界大百科事典(田村毅・高階秀爾)・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2026-10-12 取得) https://kotobank.jp/word/ろまん主義-3176449、コトバンク「ロマン主義美術」(日本大百科全書(中山公男)・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2026-10-12 取得) https://kotobank.jp/word/ろまん主義美術-3176450、テート「Romanticism」(Art Terms、2026-10-12 取得) https://www.tate.org.uk/art/art-terms/r/romanticism、en.wikipedia「Romanticism」(2026-10-09 版、2026-10-12 取得) https://en.wikipedia.org/wiki/Romanticism
年表・沿革
1798
- ドイツでシュレーゲル兄弟が雑誌『アテネーウム』を創刊し、「古典的」に対する「ロマン的」の考えを打ち出して、初期ロマン派の運動を起こした。
1808
- フリードリヒが、風景とロマン派の宗教感情を一つにした《山上の十字架》(テッチェン祭壇画)を描いたが、その新しさは当時理解されなかった。
1819
- ジェリコーが同時代の事件に取材した《メデューズ号の筏》をサロンに出し、ロマン派絵画ののろしを上げた。
1822
- ドラクロワが《ダンテの小舟》でサロンにデビューし、悪評の一方でティエールの熱烈な賞賛を受けて、作品は国に買い上げられた。
1824
- サロンでドラクロワの《キオス島の虐殺》とアングルの《ルイ13世の誓い》が並び、以後、色彩のドラクロワと素描のアングルが、ロマン主義と古典主義の対立の図式となった。
- 同じサロンにコンスタブルの《乾草車》が出され、ドラクロワらに大きな刺激を与えて、コンスタブルの名声はイギリスよりフランスで高まった。
1831
- ドラクロワが前年の七月革命をたたえた《民衆を導く自由の女神》をサロンに出し、ジェリコーの後継者、ロマン主義の領袖と見なされた。
1846
- ボードレールが『1846年のサロン』でドラクロワを賞賛し、ロマン主義芸術の本質を論じた。
関連人物
- 批評家・理論家 フリードリヒ・シュレーゲル 1798〜
兄アウグスト・ヴィルヘルムと雑誌『アテネーウム』(1798〜1800年)を出し、「古典的」に対する「ロマン的」の概念を明確にして、ロマン主義を近代の芸術観として基礎づけた。ドイツ・ロマン派の創始者とされる
- 画家 フィリップ・オットー・ルンゲ 1801〜
フリードリヒとともにドイツ・ロマン主義絵画を代表する。1801年からドレスデンなどで詩人ティークらロマン主義の文学者と交わり、版画連作《四つの時》(1803年)や《朝》などの神秘的・象徴的な作品を描いた
- 画家 アントワーヌ=ジャン・グロ 1804〜
ダヴィッドの弟子。《ヤッファのペスト患者を見舞うナポレオン》(1804年)などの生彩に富んだ色彩、劇的な主題、オリエントの情緒で、ロマン主義の先がけとなった。のちにダヴィッドの画室を継いで古典主義に戻った
- 政治家・歴史家 アドルフ・ティエール 1822〜
フランスの政治家・歴史家。1822年にドラクロワのサロン・デビュー作《ダンテの小舟》を熱烈に賞賛し、のちに政治家として、リュードがエトワール凱旋門の浮彫《ラ・マルセイエーズ》を手がけるのを後押しした
- 詩人・劇作家 ヴィクトル・ユゴー 1827〜
1827年の戯曲『クロムウェル』の序文が事実上ロマン主義の宣言書となり、作家や美術家を集めた「セナクル」の中心となった。1830年の『エルナニ』の初演で「エルナニ合戦」を起こし、ロマン派劇の全盛期を開いた
- 詩人・批評家 シャルル・ボードレール 1845〜
1845年に美術批評家としてデビューし、『1846年のサロン』でドラクロワを賞賛してロマン主義芸術の本質を論じた。1863年にはドラクロワを追悼する文章も書いた
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1819年のサロンに出したメデューズ号の筏がロマン派絵画ののろしとなり、フランスのロマン主義の端緒を開いた。
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1824年のサロンにキオス島の虐殺を出し、同じサロンでアングルの《ルイ13世の誓い》が新古典主義の人々に迎えられるなか、自分の意志とかかわりなくロマン主義の領袖とみなされるようになった。同じ年の1月にジェリコーが没し、心ならずもその旗頭となった。フランス語版ウィキペディアは、どの流派にも属したくなかったドラクロワがこれを嘆いたとする。デジタル大辞泉は「強烈な色彩と動的な構図による劇的な表現でロマン主義を代表」とする。
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ルンゲやノヴァーリス、シュレーゲル兄弟、ティークらとロマン派のグループをつくり、風景とロマン派の宗教感情を一つにした作品で、ドイツ・ロマン派最大の風景画家とされる。
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嵐や雪崩、難破などの災厄を好んで描き、ロマン主義的な情趣に満ちた物語の風景画で盛期を迎えた。後半生の輝くような色彩は、さらに新しい方向を開いた。
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ありふれた田園の風景を細かな色のタッチで詩情豊かに描いた。1824年のパリのサロンに出した《乾草車》はドラクロワらに大きな刺激を与えた。
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動物彫刻に専念し、1831年のサロンの《鰐を襲う虎》などで、動物の激しい動きと生命力をとらえてロマン主義のテーマを実現した。
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幻視的な詩の世界を描いた詩人・画家で、前ロマン派・ロマン主義の先駆者とする辞典もあるが、テートやブリタニカはイギリスのロマン主義の画家とする。
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1840年代初めの自画像などは、ロマン派の傾向を示すとされる。1849年に故郷オルナンへ戻ってから、初期の出品作の一部に見られたロマン主義風の画風を捨て、のちに「オルナンの埋葬は、実はロマン主義の埋葬だった」と語った。
- ギュスターヴ・モロー 〜1864
初期の作で、ドラクロワやシャセリオーにひかれたドラマチックなロマン主義的な様式とされ、1864年のオイディプスとスフィンクスのころから象徴的な世界に向かった。
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ロマン主義の先駆者・近代絵画の創始者とされ、魔的な人間精神を描いた版画や晩年の《黒い絵》などで、ロマン主義の画家にも数えられる。
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初めは新古典主義の作品を作ったが、自由で力強い動きと劇的な感情の表現に移った。エトワール凱旋門の浮彫《1792年の義勇兵の出発》(ラ・マルセイエーズ、1833〜36年)はロマン主義彫刻の代表作とされる。
