主義・運動
写実主義
しゃじつしゅぎ
写実主義(しゃじつしゅぎ)は、広い意味では、作者の主観や想像をおさえ、理想化や様式化を加えずに、身近なものをありのままに写そうとする態度をいい、日本ではこの広い意味を「写実」と呼んで区別することもある。美術史で限って使うときは、19世紀半ばのフランスで、新古典主義やロマン主義に対抗してクールベを中心に起こった運動(レアリスム)を指す。1855年、パリ万国博覧会に大作を拒まれたクールベは会場の近くに「レアリスム館」を建てて個展を開き、批評家シャンフルーリらがその主張を支えた。農民や労働者、都市の庶民の暮らしを美化せずに描こうとし、ミレーやドーミエもこの流れに数えられる。
出典: コトバンク「写実主義」(デジタル大辞泉・改訂新版 世界大百科事典(斎藤昌三・馬渕明子)・日本大百科全書(中山公男)・百科事典マイペディア、2026-10-12 取得) https://kotobank.jp/word/写実主義-75954、コトバンク「クールベ」(改訂新版 世界大百科事典(馬渕明子)・日本大百科全書(中山公男)・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2026-10-12 取得) https://kotobank.jp/word/くーるべ-3150544、コトバンク「リアリズム」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2026-10-12 取得) https://kotobank.jp/word/りありずむ-3174975、テート「Realism」(Art Terms、2026-10-12 取得) https://www.tate.org.uk/art/art-terms/r/realism、ブリタニカ百科事典(英語版)「Realism」(2026-10-12 取得) https://www.britannica.com/art/Realism-art
年表・沿革
1850
- クールベの《石割り人夫》と《オルナンの埋葬》がサロンに並び、「美しくないものを描いている」として騒ぎを起こした。
1855
- パリ万国博覧会に《画家のアトリエ》などを拒まれたクールベが、会場の近くに「レアリスム館」と名づけた建物を建てて40点を並べる個展を開き、そのカタログで写実主義を宣言した。
- シャンフルーリが『ラルティスト』誌に「写実主義について――サンド夫人への手紙」を書き、クールベの個展を擁護した。
1856
- デュランティらが雑誌『レアリスム』を出し、翌年に廃刊となるまで写実主義の擁護に努めた。
1857
- シャンフルーリが、宣言ともいうべき序文をつけた論集『写実主義』を出した。
1871
- パリ・コミューンの敗北で表立った写実主義の動きは終わり、ヴァンドーム広場の円柱を倒した事件の責任を問われたクールベは投獄された。
関連人物
- 小説家・美術批評家 シャンフルーリ 1848〜
本名ジュール・ユッソン。1848年から57年ころまでクールベとごく親しく、その絵を擁護した。1857年に宣言ともいうべき序文をつけた論集『写実主義』を出したが、のちにクールベとは離れた
- 美術批評家・小説家 エドモン・デュランティ 1856〜
シャンフルーリやクールベと交わり、雑誌『レアリスム』(1856〜57年)の刊行に携わった。のちにマネやドガと知りあい、印象派展を批評家として支持した
- 美術批評家 ジュール=アントワーヌ・カスタニャリ 1857〜
クールベら写実主義の画家たちと親しく、1857年から79年までのサロン評で写実主義や印象派の新しい芸術を称え続けた。1887年から美術局長を務めた
- 社会思想家 ピエール=ジョゼフ・プルードン
クールベはその影響を受け、プルードンはクールベの《石割り人夫》を農民の暮らしの象徴として称えた
- 収集家 アルフレッド・ブリュイヤス
モンペリエの銀行家の子で、クールベのパトロン。《画家のアトリエ》にも支持者の一人として描かれた。集めた作品はモンペリエのファーブル美術館に寄贈された
- 画家 フランソワ・ボンヴァン
クールベやドーミエとともに写実主義に共鳴した画家で、静物画で写実主義の一翼を担ったとされる
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農民の暮らしを包み隠さず描き、写実主義の流れの中で重要な位置を占める。
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政治や社会を風刺した石版画と、庶民の暮らしを描いた油彩で知られ、クールベやシャンフルーリと親しかった。
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英語圏の総説ではクールベやミレー、ドーミエと並ぶフランス写実主義の担い手とされるが、日本の辞典ではバルビゾン派の風景画家で、印象派の先駆者とされる。
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1850年代の終わりから都会の暮らしや娯楽を描いた作は広く写実主義の流れに入るとされ、写実主義から印象派への橋渡しをした。
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仲間の作った「写実主義(レアリスム)」の語を自分の様式の名にして、19世紀フランスの写実主義の運動を率いた。1855年、自分の展示館「レアリスム館」の目録の序文で、時代の風俗と思想と様相を自分の評価で写し、「生きた芸術をつくる」ことが目的だと書いた。この序文が、のちに「写実主義宣言」と呼ばれる。
