主義・運動
バルビゾン派
ばるびぞんは
バルビゾン派(ばるびぞんは)は、19世紀半ばのフランスで、パリの南東、フォンテーヌブローの森のはずれの村バルビゾンに住み、あるいは通って、森や田園の風景を描いた画家たちの呼び名。「フォンテーヌブロー派」「1830年派」ともいう。1830年代からこの地で描き、1840年代半ばに住みついたテオドール・ルソーと、1849年に移り住んだミレーを中心に、ディアズ、デュプレ、トロワイヨン、ドービニー、ジャックらが集まり、年長のコローもしばしば訪れた。歴史や物語の場面の背景としてではなく、ありふれた風景そのものを主題とし、17世紀オランダの風景画やコンスタブルに学んで、その場で描いた習作をもとにアトリエで仕上げた。決まった主義をもつ集団ではなかったが、風景画をそれだけで描く値打ちのある分野としてフランスに根づかせ、印象派の先駆けとなった。
出典: コトバンク「バルビゾン派」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・改訂新版 世界大百科事典(馬渕明子)・百科事典マイペディア・日本大百科全書(中山公男)・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 世界史小辞典 改訂新版、2026-10-22 取得) https://kotobank.jp/word/バルビゾン派-3164426、ブリタニカ百科事典(英語版)「Barbizon school」(2026-10-22 取得) https://www.britannica.com/art/Barbizon-school、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)「Barbizon School」(用語集、2026-10-22 取得) https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/glossary/barbizon、ラルース『絵画事典』(Dictionnaire de la peinture)「école de Barbizon」(larousse.fr の百科、2026-10-22 取得) https://www.larousse.fr/encyclopedie/peinture/école_de_Barbizon/150991、ブリタニカ百科事典(英語版)「Théodore Rousseau」(2026-10-22 取得) https://www.britannica.com/biography/Theodore-Rousseau、コトバンク「ルソー」(テオドール・ルソーの項: デジタル大辞泉・日本大百科全書(宮崎克己)・改訂新版 世界大百科事典(馬渕明子)・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2026-10-22 取得) https://kotobank.jp/word/るそー-1608107
年表・沿革
1824
- パリのサロンにイギリスの風景画家コンスタブルの《乾草車》などが並び、のちのバルビゾン派の画家たちに影響を与えたとされる
1833
- テオドール・ルソーが初めてフォンテーヌブローの森を訪れ、以後バルビゾンでしばしば描く
1836
- ルソーの《ジュラ山脈の牛の山下り》がサロンに落とされ、以後も落選が続いて「落選の大画家」とあだ名される
1846
- テオドール・ルソーがバルビゾン村の家に住みつき、のちにその納屋が画家や批評家の集まる場となる
1848
- 二月革命のあとサロンが審査をゆるめ、落選の続いたルソーがようやく公に認められる
1849
- コレラの流行を逃れてパリを離れたミレーがガンヌの宿に迎えられてバルビゾンに住みつき、同じ年にシャルル・ジャックも村に来る
1850
- このころから毎週土曜日にルソーの家の納屋に画家たちが集まるようになり、愛好家のサンシエや批評家のトレ=ビュルガー、作家のゴーティエらもパリから訪れる
1855
- パリ万国博覧会にルソーの作品13点が並び、コローもこの展示で一気に名を高める
1861
- 1852年のルソーの請願を受けて、皇帝ナポレオン3世が森の1097ヘクタールを散策する人と画家のために残す命令を出し、フォンテーヌブローの森に初めての自然保護区ができる
1867
- ルソーがパリ万国博覧会の美術部門の審査委員長を務め、12月にバルビゾンで没する
1875
- 1月にミレーがバルビゾンで、2月にコローがパリで没する
1876
- バルビゾン派の影響を受けたイタリアの画家フォンタネージが工部美術学校の教師として来日し、浅井忠らにデッサンと油彩の基礎を教え、バルビゾン派のコローやミレーの話もする
1978
- 山梨県立美術館が開館し、ミレーの《種をまく人》を最初のコレクションとして、ミレーとバルビゾン派の作品を集める
1995
- 画家たちが泊まったバルビゾンのガンヌの宿の建物に、バルビゾン派の美術館が開く
関連人物
- 画家 テオドール・ルソー 1833〜
1833年からフォンテーヌブローの森で描き、1840年代半ばにバルビゾンに住みついて、1867年にこの村で没した。その家の納屋は画家や批評家の集まる場となり、派の精神的な中心とされる。1852年には森の伐採をやめるよう皇帝に請願し、そのあとの調査を経て、1861年に森の一部が保護された
- 画家 ナルシス・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ 1837〜
1837年にバルビゾンに現れ、木漏れ日の差す森の奥を描いた。厚塗りの荒々しい筆づかいは、初期の印象派に大きな影響を与えたとされる
- 画家 シャルル=フランソワ・ドービニー 1843〜
1843年からフォンテーヌブローの森でも描いて派との関係を深めたが、村には住まなかった。1857年からはアトリエ船「ボタン号」で川をめぐって描き、派の画家のなかで最も大きな影響を印象派に与えたとされる
- 画家 コンスタン・トロワイヨン 1846〜
セーヴルの陶工の子で、1846年からバルビゾンに滞在した。1846〜47年のオランダ旅行でポッテルやカイプの絵に触れてから、牛や羊のいる牧歌的な風景で人気を集めた
- 画家 シャルル・ジャック 1849〜
1849年、ミレーと同じ年にバルビゾンに来た。ポッテルやカイプら17世紀オランダの動物画の影響を受け、家畜のいるおだやかな情景を描いた
- ジャン=フランソワ・ミレー 1849〜1875
1849年、コレラの流行を逃れてパリを離れ、バルビゾンに住みついて、1875年にこの村で没した。テオドール・ルソーと並ぶ派の中心とされるが、風景よりも農民の姿を主題とした点で、ほかの風景画家たちと一線を画す。
- 画家 ジュール・デュプレ
テオドール・ルソーと知り合ってバルビゾンを訪れたが、長くはとどまらず、北海の沿岸などフランス各地の風景も描いた。1834年のロンドン旅行でコンスタブルの絵に学び、雲の描写に定評がある
- 画家 ポール・ユエ
ガンヌの宿の初期の客の一人。ドラクロワと交わり、ロマン主義的な風景画を描いて、印象主義の先駆けともされる
- 愛好家・ミレーの伝記作者 アルフレッド・サンシエ
毎週土曜日にルソーの家の納屋で開かれた集まりに、パリから通った愛好家の一人。ミレーの伝記を書き、1881年にその英訳が出た
- 美術批評家 トレ=ビュルガー
ビュルガーの筆名でも書き、政治上の理由でフランスを追われた批評家。ルソーの家の納屋の集まりに通い、コンスタブルがバルビゾン派の出発点になったと説いた。ベルギーのテルヴューレン派を「ベルギーのバルビゾン」と呼んだ
- 宿の主人 フランソワ・ガンヌ
妻エドメとバルビゾンで営んだ食料品店を兼ねた宿が、1820年代から画家たちを泊め、集まりの場となった。1849年にはミレーもここに迎えられた。建物は1995年からバルビゾン派の美術館になっている
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動物の彫刻で知られる彫刻家で、1841年に油彩で風景を描き始め、1840年代の終わりにはフォンテーヌブローの森に通って、ミレーやディアズらバルビゾン派の画家と並んで描いた。パリの植物園で観察した猛獣を、森の風景の中に置いて描いた。
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一世代年長の風景画家で、1825年にイタリアへ発つ前からバルビゾンを訪れ、その後もしばしば描いた。多くの辞典は派の一人に数えるが、派の画家たちと制作の場を同じくしながら助言者の立場にとどまり、独自の風景画を求めたとする見方もある。
