期間限定 手数料割引中 出品者3% 購入者1%
歌川国芳

歌川国芳

うたがわくによしUtagawa Kuniyoshi
779 作品

天保の江戸で「武者絵の国芳」の名を知らぬ者はいなかった。歌川国芳(1797〜1861)は日本橋の染物屋の子に生まれ、十五歳で初代歌川豊国に入門する。しかし兄弟子歌川国貞(三代目歌川豊国)の陰で十年以上鳴かず飛ばず——転機は文政10年(1827年)頃の《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》だった。刺青の豪傑たちが暴れ回るこの揃物は空前の当たりを取り、江戸に水滸伝ブームと刺青ブームを同時に巻き起こす。

国芳の画面は、浮世絵の枠には収まらない。相馬の古内裏では骸骨を一体の巨大な髑髏に再構成して三枚続を貫かせ、宮本武蔵と巨鯨では画面の外まで続く鯨の背に武者を這わせる。西洋銅版画を蒐集し、陰影法や遠近法を武者絵や風景に平然と混ぜた。天保の改革が役者絵・美人画を禁じると、《荷宝蔵壁のむだ書》では壁の落書きに役者の似顔を描いて検閲を出し抜き、源頼光公舘土蜘作妖怪図は妖怪たちに幕政批判を読み取られて版木を割る騒ぎになった。禁令の網の目をくぐるたびに、国芳の人気は上がった。

そして猫である。懐に常に数匹を入れて描いたと伝わる愛猫家は、《金魚づくし》では金魚に盆踊りをさせ、猫の当字では猫の群れで文字を作り、其のまま地口猫飼好五十三疋では東海道五十三次を五十三匹の猫の駄洒落に変えた。奇想と諧謔と正確な写生——この三つを同じ筆で操れたのが国芳の底力である。

門下も破格だった。無惨絵から歴史画へ進む月岡芳年、新聞錦絵の落合芳幾、はては明治の暁斎まで、幕末明治の劇画的想像力はほぼすべて国芳の画室から出ている。文久元年(1861年)没。現代の劇画・妖怪画・キャラクター文化まで、その水脈は途切れていない。

歌川国芳の作品をお持ちですか?

Cugiraで出品してみませんか?

出品する
779件