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鈴木春信

鈴木春信

すずき はるのぶSuzuki Harunobu
209 作品

錦絵の創始者として知られる鈴木春信の夕立の若い女には、画工の春信、彫工の遠藤五緑、摺工の湯本幸枝の名が並ぶ。明和2年(1765年)のこの絵暦に、錦絵を生んだ共同作業の跡が残っている。

絵暦は、陰暦の大の月と小の月を絵に織り込んだ暦である。大の月は30日、小の月は29日で、並びは年ごとに変わった。明和2年、趣味人たちは絵暦を摺って交換する会を開き、彫師や摺師の技を競わせた。頭取の一人、旗本で俳人の大久保巨川は、図柄を工夫して春信に描かせた。

多色摺では、版木に刻んだ「見当」という目印に合わせて色を重ねる。春信らはこれを「吾妻錦絵」の名で売り出した。中間色や胡粉を混ぜた不透明な絵具を使い、約28センチ×20センチの中判に、若い男女の恋や親子の情愛を描いた。

町の暮らしに古典和歌や古い画題を重ねる見立絵も得意だった。「坐鋪八景」は、中国の瀟湘八景を座敷の道具に見立てた8図のシリーズである。坐鋪八景 塗桶の暮雪では、真綿を雪に、真綿をのばす塗桶を山に見立てた。シカゴ美術館の揃いには巨川の手書きの署名があり、巨川が作らせた初版と考えられている。

浮世絵師の伝記集『新増補浮世絵類考』は、春信が一生、役者絵を描かず、「我は大和画師なり。何ぞ河原者の形を画くに堪んや」と言ったと伝える。ただし、紅摺絵の時期には役者絵もある。描かなくなったのは錦絵を始めてからだった。

明和4年(1767年)、19歳の大田南畝は『寝惚先生文集』で「鳥居何敢勝春信」と詠んだ。芝居絵で人気の鳥居派も春信にはかなわない、という評である。序を書いた平賀源内は春信と同じ神田白壁町に住み、二人は常に行き来していたという。

最晩年には笠森お仙、柳屋お藤など、評判の町娘を実名で描いた。谷中の笠森稲荷の水茶屋にいたお仙は、明和5年(1768年)、18歳で評判になった。

お仙が嫁いで店を去った明和7年(1770年)、春信も6月に没した。錦絵を始めてからの5年間に、700点以上を世に出した。急死のあと、門人の鈴木春重(のちの司馬江漢)は春信の偽版を作り、だれも見破らなかったと自分で書いている。

春信の美人画にあった夢のような作りごとを、礒田湖龍斎はしだいに払っていった。天明年間の鳥居清長は、八頭身の美人を現実の景色の中に描いた。

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