
礒田湖龍斎
細く縦に長い、掛軸のような判型がある。柱にかけて眺めるための柱絵――幅わずか一三センチほどのその窮屈な画面に、女の立ち姿を破綻なく収めることは、浮世絵師にとって一種の腕試しであった。礒田湖龍斎(いそだこりゅうさい、1735年生・没年は1790年頃とされる)は、この柱絵をおよそ三五〇図も手がけ、狭さを逆手にとって着物の裾や帯の垂れを縦に流し、格子や欄干を巧みに配して空間を締めた、柱絵の名手である。
本姓は藤原、名は正勝、俗称を庄兵衛といった。もとは土浦藩主土屋家に仕える武士であったが、主家の断絶により浪人となり、江戸両国の薬研堀あたりに移り住んで絵筆をとったと伝わる。号の「湖龍」は、旧主の領地に近い霞ヶ浦にちなむという。
西村重長の門人とも伝わるが確証はなく、湖龍斎の絵を決定づけたのはむしろ隣人であり盟友でもあった鈴木春信の存在である。明和6年(1769年)ごろ「春広」の号で錦絵を始めた当初、その女たちは春信ゆずりの、線の細い可憐で夢見るような美人であった。ところが明和7年に春信が没すると、湖龍斎の女はしだいに肉づきを増し、たっぷりとした量感と現実味をたたえた姿態へと変じていく。師の様式を継ぎながら、そこから抜け出て次代の写実的な美人画を用意した――この過渡の位置にこそ、彼の面白さがある。
安永5年(1776年)から版を重ねた大判連作《雛形若菜の初模様》は、吉原の遊女に趣向を凝らした最新の衣装をまとわせた、いわば当世のファッション・プレートで、およそ一四〇図に及ぶ。現存する浮世絵の美人揃物として最長の連作であり、これを描き継いだのが、やがて安永・天明の画壇を席巻する鳥居清長であった。清長の颯爽たる八頭身美人は、この連作を苗床として育ったといってよい。
驚くべきはその多産で、確認される版下絵はおよそ二五〇〇図、ほかに花鳥画、春画、そして九〇点ほどの肉筆画を残した。天明2年(1782年)、絵師として異例の栄誉である法橋に叙せられ、以後は落款にその位を添えた。晩年は版画の筆を控え、肉筆浮世絵に力を注いだとされる。作品はボストン美術館、大英博物館、エルミタージュ美術館など各国の主要館に収まっている。
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