流派
狩野派
かのうは
狩野派(かのうは)は、室町幕府の御用絵師となった狩野正信を祖とし、明治の初めまでおよそ400年にわたって画壇の中心にあった、日本絵画史上最大の画派。正信の子の元信が、漢画にやまと絵の彩色を加えた装飾的な画風と一門で障壁画を描く工房を築き、元信の孫の永徳は織田信長・豊臣秀吉のもとで安土城や大坂城の障壁画を手がけた。江戸時代には永徳の孫の探幽らが幕府の御用絵師として江戸へ移り、のちに鍛冶橋・木挽町・中橋・浜町の4家が奥絵師を世襲して、その下に表絵師や諸藩の御用絵師が連なった。豊臣家に仕えて京都に残った狩野山楽の家系は、京狩野と呼ばれる。
出典: コトバンク「狩野派」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・改訂新版 世界大百科事典(斉藤昌利)・日本大百科全書(榊原悟)・ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典・百科事典マイペディア・旺文社日本史事典、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/狩野派-46011、コトバンク「江戸狩野」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/江戸狩野-36901、コトバンク「奥絵師」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/奥絵師-39973、コトバンク「京狩野」(デジタル大辞泉・ブリタニカ国際大百科事典ほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/京狩野-52516、ja.wikipedia「狩野派」(2026-02-22 版、2026-10-11 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/狩野派、京都国立博物館「京都国立博物館開館130周年記念 特別展 大狩野派」(2026-10-11 取得) https://www.kyohaku.go.jp/jp/exhibitions/special/2027_kano/、静岡県立美術館「狩野派の世界」(2026-10-11 取得) https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/archive/symphony/scenery02_01/
年表・沿革
1483
- 正信が足利義政の東山殿の障子に《瀟湘八景図》を描き、こののち義政に重く用いられた。
1539
- 元信が子の松栄ら門弟とともに石山本願寺の障壁画を描き始め、1553年まで手がけた。
1566
- 元信の孫の永徳が父の松栄とともに大徳寺聚光院の障壁画を描き、室中の《四季花鳥図》で桃山絵画の幕を開いた。
1576
- 織田信長が安土城の建設を始め、永徳が子の光信らと天守や御殿の障壁画を描いた。
1617
- 永徳の孫の探幽が、16歳で江戸幕府の御用絵師となった。
1621
- 探幽が江戸城の鍛冶橋門外に屋敷を与えられ、鍛冶橋狩野家を開いた。
1870
- 明治維新ののち、奥絵師のうち徳川宗家に従った鍛冶橋家を除く3家が御暇を仰せ付けられて平民になったとされ、狩野派の多くは御用絵師の地位を失って転業した。
1884
- 木挽町狩野家の狩野雅信に学んだ狩野芳崖と橋本雅邦が、フェノロサや岡倉天心らの鑑画会に加わり、新しい画風の開拓に取り組んだ。
関連人物
- 中橋狩野家の祖 狩野安信 1623〜
孝信の三男。1623年、跡継ぎのないまま没した従兄の貞信の養子として狩野宗家を継ぎ、のち江戸の中橋に屋敷を与えられた。画論『画道要訣』を著した
- 木挽町狩野家の祖 狩野尚信 1630〜
孝信の次男で探幽の弟。1630年に江戸へ下って幕府の御用絵師となり、竹川町に屋敷を与えられた。その家系は江戸狩野の中で最も栄えた
- 木挽町狩野家の当主 狩野雅信 1846〜
勝川院と号した。木挽町狩野家の最後の当主で、門下から狩野芳崖と橋本雅邦が出た
- 元信の三男 狩野松栄
永徳の父。兄たちが早世したため狩野家を継いだと伝わり、1566年に永徳とともに大徳寺聚光院の障壁画を描いた
- 永徳の長男 狩野光信
1576年から父と安土城の障壁画を描き、父の没後は狩野派を率いた。大和絵に学んだ繊細で優美な画風で知られる。1608年、江戸からの帰途に桑名で没した
- 永徳の次男 狩野孝信
兄光信の没後に狩野派を率い、1613年に御所紫宸殿の《賢聖障子》を描いた。探幽・尚信・安信の父
- 永徳の弟 狩野長信
松栄の四男。初めて徳川幕府に仕えた狩野派の絵師とされ、1623年に宗家の貞信が早世すると、安信を宗家の養子に入れて後見した。《花下遊楽図屏風》の筆者
- 光信の門人 狩野興以
孝信の遺した探幽・尚信・安信の3兄弟を指導し、江戸狩野の様式の形成に貢献した。のち紀州徳川家に仕えた
- 京狩野の2代 狩野山雪
狩野山楽の門人で、のちに娘婿となって家督を継いだ。子の永納がまとめた『本朝画史』は、山雪の草稿による
- 浜町狩野家の祖 狩野岑信
狩野常信の次男。6代将軍徳川家宣に重用されて奥絵師に取り立てられた
- 中橋狩野家の当主 狩野永悳
武内桂舟を一時養子とした。1878年に来日したフェノロサに日本画を教え、1890年に帝室技芸員となった
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母方の大叔父・狩野探幽に学び、探幽を頂点とする江戸初期の狩野派の様式を終生守った(大平有希野)
- 鍛冶橋狩野家の祖
狩野永徳の孫。江戸幕府の御用絵師となり、弟の尚信(木挽町狩野家の祖)・安信(中橋狩野家の祖で宗家)とともに、江戸狩野と呼ばれる一門の中心となった。奥絵師を頂点に、表絵師・諸大名のお抱え絵師・町狩野と続く一門の階層組織を整えた。
- 2代目
狩野派の祖・狩野正信の子で、狩野派の2代目。漢画の水墨画法を基礎に大和絵の技法を取り入れて、和漢を融合した障壁画の様式を作った。真・行・草の三つの画体を弟子に学ばせ、多くの門弟を抱える工房を組織して、狩野派発展の基礎を確立した。江戸時代の画史・画伝では、敬愛を込めて「古法眼」と呼ばれた。
- 木挽町狩野家2代
父の尚信が興した竹川町狩野家(のちの木挽町狩野家)の2代目で、慶安3年(1650年)に15歳で家を継いだ。古くから狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに狩野派の「四大家」の一人とされる。世界大百科事典は、尚信・探幽の亡きあとの江戸狩野の総帥として活躍し、狩野家の画界での世襲的な地位を確かなものにしたとする。一方で、叔父で妻の父の安信の存命中は不遇で、安信の没後に法眼・法印と僧位が上がり、狩野派の中での地位を高めたともいわれる。探幽と同じく古画をよく学んで、古画の鑑定控えや手本・下絵を大量に残し(「常信縮図」)、木挽町狩野家が栄える基礎を固めたと評価される。
- 祖
正信以来、狩野家が専門画家の道を歩むようになり、正信が狩野派の祖とされる(世界大百科事典)。仏画・肖像画・障壁画から位牌入泥まで和漢の幅広い画事をこなし、嫡男の元信の代に大きく発展する狩野派の基礎を築いた。
- 棟梁
狩野派の初代とされる正信の曽孫で、元信の孫、松栄の長男。狩野派の棟梁として織田信長・豊臣秀吉に仕え、安土城・大坂城・聚楽第などの障壁画を、一門を率いて工房の集団制作で次々に手がけた。この活躍で狩野派は桃山画壇の中心に座り、永徳の大画の表現は長谷川等伯や海北友松など桃山画壇全体に影響を与えた。
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同郷の高田敬輔に師事した。敬輔は京狩野の狩野永敬に学んだ画家で、雪鼎はのちに西川祐信らの感化を受けて風俗画に転じた。
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父の暁斎は狩野派の前村洞和と、その師の狩野洞白に学び、洞白から洞郁の号を受けた。日置昌一『日本系譜綜覧』(1936年)の絵画系図は、狩野派(駿河台家)の系図の中に暁斎を置き、その下に暁翠を載せる。弟子の小熊忠一に何派を名乗ればよいかと尋ねられ、即座に「狩野派です」と答えたという。大正3年(1914年)の『現代日本美術家全録』は「日本画(暁斎派)」とする。
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幼いころ中橋狩野家の狩野永悳の養子となって画を学び、「敬信」と号した。
