
狩野探幽
狩野探幽(1602〜1674)の「探幽縮図」には、原画が失われた古い絵の姿が残る。江戸幕府の御用絵師として狩野派を率い、城や寺院を飾った画家で、描かない余白まで景色の続きに見せる画風で知られる。
京都に生まれ、名は守信。父は狩野孝信、祖父は桃山時代の絵画を代表する狩野永徳だった。13歳のとき、2代将軍徳川秀忠の前で海棠と猫を描き、祖父の再来と称賛されたと伝わる。
元和3年(1617年)に幕府の御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸城の鍛冶橋門外に屋敷を与えられた。江戸を本拠に鍛冶橋狩野家を興し、弟の尚信・安信とともに江戸狩野の体制を整えた。
寛永3年(1626年)、二条城の障壁画制作で一門を率いた。二の丸御殿の大広間では、一の間から三の間を探幽が担当し、金箔を背景に巨大な松と錦鶏鳥や孔雀を描いた。物を重ねて奥行きを出す描き方を避けた構成には、すでに新しい様式の特徴が認められる。
寛永11年(1634年)の名古屋城上洛殿の障壁画あたりを境に、筆数を減らし、余白を広く取る画風へ移った。上洛殿三之間の雪中梅竹鳥図は、江戸狩野派の様式の完成を示す記念碑的な作例とされる。
寛永18年(1641年)には、大徳寺本坊方丈の障壁画83面を描いた。水墨を中心とする山水図は、余白を生かす画風が完成した姿とされる。美術史家の鬼原俊枝は、何も描かれていない部分を景観の続きに見せる方法に着目し、探幽を日本絵画史の「分水嶺」と位置づけた。
探幽は宋・元の中国絵画や雪舟等楊を深く学んだ。「探幽縮図」は制作の参考に加え、鑑定や弟子の教育にも使われ、日本と中国の古画を後世に伝える資料となった。やまと絵も学び、「古事記」の神話を縦長の画面に描いた鸕鷀草葺不合尊降誕図も残している。
古い絵を学ぶなかで、新しい手本も生まれた。富士山と三保松原、清見寺を組み合わせる構図は室町時代からあった。探幽はこれを組み直して富士山図の定型にした。この定型は江戸時代を通じて、流派を越えて使われた。寛文9年(1669年)の富士三保清見寺図屏風も、この構図で雪に覆われた富士を描いている。
延宝2年(1674年)、江戸で没した。狩野派は探幽以降、幕末まで幕府の御用絵師を務めた。明治には岡倉天心が著書「日本美術史」で、探幽を「画壇の家康」と評した。
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