
土佐光信
土佐光信は、室町時代の中ごろから戦国時代にかけて活動した大和絵の絵師である。宮廷の絵所預を、半世紀以上にわたって務めた。絵所預は、朝廷の絵所に属する絵師の長である。生年と没年ははっきりしない。記録に残る仕事は、寛正3年(1462年)から永正17年(1520年)ごろまでにわたる。
文明元年(1469年)、8代将軍足利義政の命で、宮廷の絵所預に任じられた。応仁の乱のさなかである。延徳3年(1491年)前後には室町幕府の絵師の職も継ぎ、宮廷と幕府の両方の絵所を預かった。明応5年(1496年)に刑部大輔、明応10年(1501年)に従四位下となり、絵師として最高の位に上った。伝統的な大和絵の技法に漢画の線描を取り入れ、仏画・肖像画・絵巻・屏風など、さまざまな絵を描いた。
当時の貴人たちは、光信を肖像画家として重んじた。延徳4年(1492年)の後円融院像は、後円融院の百回忌のために描いたものである。公卿の三条西実隆とは、絵巻づくりなどを通じて25年以上の付き合いがあった。文亀元年(1501年)、光信は《北野天神縁起絵巻》の相談に実隆を訪ねた。そのとき実隆は、光信に自分の顔の下絵を描かせた。実隆はその日の日記に、下絵が「十分に似ていない」と書いている。この下絵は、いまも東京大学史料編纂所に残る。
代表作は、北野天満宮に伝わる全3巻の《北野天神縁起絵巻》と、東京国立博物館の清水寺縁起絵巻である。前者は文亀3年(1503年)に完成した。清水寺縁起絵巻は、清水寺の創建と本尊千手観音にかかわる縁起を、観音の三十三応化身にちなんで3巻33段にまとめた。永正14年(1517年)に描かれ、永正17年(1520年)ごろに完成したとみられる。息子の光茂や弟子たちと描いた晩年の作である。美術史家の谷信一は、光信の生涯の画技がこの絵巻1本に凝結していると書いた。
永正3年(1506年)には、越前の朝倉氏の当主・朝倉貞景のために、京の町を描いた屏風一双《京中図》を描いた。現存しないが、洛中洛外図屏風の原型と目される。連歌もよくし、記録に残る連歌と和歌の活動は約60年に及ぶ。永正年間(1504〜21年)には、公卿の邸で毎月開かれる連歌会の定衆に加わった。
大永3年(1523年)ごろ、子の光茂が跡を継いで絵所預となった。永禄12年(1569年)に光茂の子が戦死すると、土佐家は絵所預の地位を失った。約100年途絶えたこの職に、承応3年(1654年)、土佐光起が復帰して土佐派を再建した。光信は、光長・光起とともに大和絵の三筆に数えられる。
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