
渓斎英泉
気だるげに首をかしげ、白い襟足をのぞかせる遊女——渓斎英泉の描く女には、盛りを過ぎた花のような、崩れかけた色香が漂う。清らかさや初々しさを是とした同時代の美人画のなかで、英泉はあえて退廃を選んだ。うつむいた猫背、下がり気味の目尻、けだるい肉づき。その頽廃美こそ、幕末という時代の空気を最も正直に映した肖像だったのかもしれない。
寛政2年(1790年)ごろ、江戸に生まれた。本名を池田義信、俗称を善次郎という。はじめ狩野派の狩野白珪斎に絵の手ほどきを受けたが、家運の傾きや放蕩のなかで浮世絵に転じ、菊川英山の門をくぐった。師の英山ゆずりの華奢で可憐な美人像から出発しながら、英泉はやがてそれを裏返すように、大首絵において妖艶で世慣れた女たちを次々と生み出していく。あぶな絵や春画にも旺盛に筆を染め、その奔放さは自ら綴った随筆にも隠さず記された。
色の作家でもあった。舶来の顔料ベロ藍(プルシアンブルー)をいち早く画面に取り込み、藍一色で刷り上げる藍摺絵の名品を残している。天保6年(1835年)ごろに始まった連作《木曽街道六十九次》では歌川広重と分担し、全七十図あまりのうち二十四図ほどを英泉が受け持った。険しい山道や宿場のにぎわいを、独特のくすんだ叙情でとらえている。
英泉の名は海を越えても響いた。彼が描いた花魁の図は雑誌の表紙を介してパリに渡り、フィンセント・ファン・ゴッホが油彩で模写している——ジャポニスムの熱狂を象徴する一枚である。
絵筆だけの人ではなかった。天保4年(1833年)には浮世絵師の系譜と逸話を記した随筆《无名翁随筆》(《続浮世絵類考》)を著し、後世の研究に欠かせぬ資料を残した。晩年は錦絵を離れて「一筆庵」の号で戯作を綴り、白粉など化粧品の商いにも手を出した。多才で、放埒で、どこか醒めていた男は、嘉永元年(1848年)に江戸で世を去った。
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