
小山正太郎
画塾・不同舎で700余名を教えた小山正太郎は、青木繁や坂本繁二郎、中村不折らを育てた明治の洋画家だ。自身の作品は少なく、生涯の大部分を絵を教えることに費やした。
越後国長岡の藩医の家に生まれ、明治4年(1871年)に上京した。川上冬崖の塾で西洋画を学び、明治9年(1876年)には新設の工部美術学校で、イタリア人教師アントニオ・フォンタネージに学ぶ。だが師が帰国すると、後任の教師の指導に不満を抱き、仲間と連れ立って学校を去った。
退学した仲間は浅井忠の家に集まり、絵を研究した。小山はその集まりを引き受けて私塾とし、明治20年(1887年)に不同舎を開く。塾では、形を一本の線で描くことを重んじた。吉田博や石井鶴三もここで学んだ。
教える一方で、小山自身は風景や歴史を題材に描いた。明治14年(1881年)の仙台の桜には、フォンタネージの画風が受け継がれている。道が奥へ続き、その上に小さな人物を置く描き方は、後に「道路山水」と呼ばれた。鷹狩りの一行が酒屋に立ち寄る濁醪療渇黄葉村店もその一例だ。門人とともに、浅草のパノラマ館で日清戦争の場面も描いた。
小山は東京師範学校でも教えた。学校で毛筆画と鉛筆画のどちらを教えるかが争われると、鉛筆画の側に立って毛筆派と闘ったが、敗れた。洋画そのものも退けられる時代だった。明治22年(1889年)には浅井らと洋画家の団体・明治美術会を結成し、洋画を守ろうとした。濁醪療渇黄葉村店は、その会の展覧会に出した作品である。
毛筆派との論争に敗れた後、明治38年(1905年)には国定教科書の鉛筆画の手本を描いた。明治41年(1908年)、230余名の教師が集まった講習会では、学校の図画は「画工をつくるのではない」と説く。必要なときに身近な物や景色を描き写せる力を、子どもたちに身につけさせようとした。大正5年(1916年)、東京で没した。
小山正太郎の作品をお持ちですか?
Cugiraで出品してみませんか?












