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尾形光琳

尾形光琳

おがた こうりんOgata Korin
11 作品

金色の地に、群青と緑青だけで杜若が咲いている。水も土もどこにも描かれていないのに、見る者の目には八橋の沢が広がる——燕子花図屏風(根津美術館・国宝)は、尾形光琳がものの形を思いきって切り詰めた末にたどり着いた画面だ。『伊勢物語』の東下りで在原業平が杜若の花に都を思って歌を詠んだ、あの八橋の一場。光琳はその物語を、花の反復と余白だけで屏風の上に立ち上げた。

光琳は万治元年(1658)、京の呉服商・雁金屋に生まれた。得意先に徳川家康や淀殿の名が連なる一流の店で、能装束や小袖の図案を扱う家に育った光琳は、幼い頃から絵と染織の意匠に囲まれていた。焼物の尾形乾山は五つ下の弟で、後年には乾山の焼いた器に光琳が絵付けをする兄弟合作も生まれている。

父の遺した莫大な財産を、光琳は遊芸と放蕩に使い果たした。四十を目前に家運が傾き、絵を売って暮らしを立てるほかなくなる。画は狩野派の流れをくむ山本素軒に学んだと伝わるが、彼が本当に手本にしたのは一世代前の俵屋宗達と本阿弥光悦だった。宗達の風神雷神図を写し(東京国立博物館・重文)、その「たらしこみ」——乾ききらない墨や絵具の上に別の色を垂らし、にじみで葉や幹の量感を出す技——を自らの絵の芯に据える。元禄十四年(1701)、四十四歳で法橋の位を受けた。

宝永の頃には江戸へ下り、姫路藩主・酒井家から扶持を受けた。京へ戻ってからも着物の下絵や蒔絵の意匠を次々に手がける。彼の描く水流や菊、蔓草の図案は「光琳模様」と呼ばれ、小袖や工芸品に広く写されて、絵師の枠を越え江戸の暮らしの意匠そのものになっていった。

晩年の紅白梅図屏風(MOA美術館・国宝)では、金地の中央に黒々とうねる水流を通し、左右へ紅梅と白梅を向かい合わせた。白梅とされる木は、もともと桃色の有機染料で描かれたものが三百年のあいだに色が抜けて今の姿になったという。八橋を螺鈿と蒔絵で組んだ《八橋蒔絵螺鈿硯箱》(東京国立博物館・国宝)まで、光琳の手は紙にも漆にも同じ意匠を刻んだ。

享保元年(1716)、京で没した。花や水を大胆に図案へ還元するこの作風は、光琳の名から「琳派」と呼ばれるようになる。一世紀のち、江戸の酒井抱一は光琳を慕い、風神雷神図屏風の裏に《夏秋草図屏風》を描いて、その弟子鈴木其一へと様式を継いだ。宗達から光琳へ、光琳から抱一へ——直接の師弟ではなく、残された作品を通じて受け継がれた系譜だった。

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