
勝川春山
人形町で精巧な羽子板を作った「勝文」は、浮世絵師・勝川春山の子孫の店だった。天明・寛政期に役者絵と美人画を描いた春山は、とくに三枚の版画をつなぐ美人画で高く評価されてきた。
生年は分からない。勝川春章の門人とされるが、勝川春英に学んだとする記録もある。
木村捨三は、昭和38年(1963年)の「勝川春山の代々」で、勝川家の位牌に春英が初代、春山が二代目と記されていることを紹介した。木村は、春山が春英から多く教えを受けたのだろうとみた。
春山は別の名でも仕事をしている。天明2年(1782年)刊の黄表紙「擲討鼻上野」には、「画工勝春山国信」と署名した。
「浮世絵師伝」によれば、天明6年(1786年)頃には泉守一に学び、短い間だけ泉昌有と名乗った。中山小十郎の斧定九郎にも、この名の署名がある。天明7年(1787年)頃の咄本「新作落咄 徳治伝」では、泉昌有の名で絵と文章の両方を手がけた。
美人画には、鳥居清長の影響が強く見られる。東京帝国大学で美術史を講じた藤懸静也は、昭和21年(1946年)の「増訂浮世絵」で、春山の画風が師とは異なり、清長に似ていると書いた。三枚続の《淀川堤八幡参りの図》などを挙げ、「実に春山は立派な手腕をもつてゐる」と評している。
明治25年(1892年)の読売新聞にも、春山を好む人々の様子が記されている。記事は、パリの美術家が歌麿の画を出版して以来、歌麿がよく売れていると伝えた。一方、日本の画工は歌麿の画風が野卑に傾くのを嫌い、石川豊信や清長と並べて春山を愛好していたという。古画の売買でも、この三人の絵に値打ちが置かれるようになったと報じた。
春山は天保12年4月7日(1841年5月27日)に没した。勝川家の過去帳には、画名は春山、俗名は文吉とある。本姓の大関は墓石から分かる。寺の過去帳には「人形町勝川文吉事」とあり、春山自身も人形町に住んでいた。
冒頭の「勝文」は、春章の末裔の店と伝えられていた。昭和15年(1940年)に木村が子孫を訪ねて、春山につながる家だと分かった。初代の娘の婿となった二代目春山は、押絵細工を仕事にしていた。木村は、勝文の羽子板の評判を築いたのは、この二代目だろうとみている。
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